著作者:*Light Painting*
効き目を手術したので、手術からずっと眼帯をしていたのはとても不便でしたが、別に細かなことをするわけでもないので、さほど不自由は感じていませんでした。
しかし、朝夕二回、時によっては3回の診察時に眼帯をはずすと、手術した目は視力がかなり落ちているのが分かり、いつになったら戻るのだろうかという期待は抱きつづけていました。
そして、視力が戻らないまま、退院を告げられた時にはかなりショックでした。
お医者さんに「まだ目が見えないんですが・・・・」と言ってしまいました。
お医者さんには「目が見えるようになるまでいたら、病室が満杯になってしまいます。」といわれました。
手術の説明のとき、執刀医から「1カ月くらい過ぎて、目が落ち着いたらメガネを作りましょう。」と言われてはいましたが、裸眼でこんなに見えなくなるとは思いもしなかったことだけにショックは隠せませんでした。
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網膜剥離手術後、眼帯を外して退院―視力変化に歩けなかった
退院の朝、眼帯を外してくれましたが、片目の時よりずっと見えにくく、部屋中がガタガタに歪んでいました。
廊下も歪みが大きく、手すりもまともに見えない状態だったので、退院するときには看護師さんに頼んで、眼帯をかけて帰ってきました。
効き目を手術したので、脳が効き目を覚えていて見えない方の手術後の目を最大限に使おうとした結果なのかもしれないと後でわかりました。
家に帰っても部屋の歪みがひどくしばらくは歩けませんでしたが、慣れるほかはないと思い動いているうちに歩けるようになってきました。
しかし手術をした右目はかなり見えにくくなっているのがわかりました。
もともと近視でしたが、近くはよく見えるので、家の中ではメガネなしで過ごすことが多かったのですが、手術後は近い所であってもぼんやりとしか見えないようになってしまいました。
手術前に見えていたくらいに戻るのではないかという思いは無残にも打ち砕かれてしまったことになります。
しかしどんなにあがいても、見えないものは見えないし、術後8日過ぎて退院しましたが、目は腫れて傷みも残っているしどうすることもできないのが現実でした。
「落ち着いたらメガネを作りましょう。」という説明以外、術後の視力についての説明もないまま不安な日を過ごすことになってしまったことは、精神的なダメージを受けることになりました。
しかし、現状は避けられないので、1日家にいて、次の日は美容院に行き髪を染めて、カットをしてきました。
目の腫れがひどいので、毛が入らないように大きな眼帯をして化粧なしで行ったので、美容師さんにびっくりされてしまいました。
次の日は、92歳の認知症の母を病院に連れて行く日でしたが、もう連れていけそうもないので、妹に頼んで母が同居している弟夫婦の家の近くの医院に紹介状を書いてもらうようにしていたので、その手続きが終わったあとに妹が来てくれました。
離れて住んでいる母の面倒も見れないと思うと悲しみがわいてきますがどうしようもないことでした。
妹も遠いので、後は同居している弟夫婦に託すしかすべがないと言う事になりました。
その日は妹と一緒でしたが、次の日から何をしたらよいか途方に暮れてしまいました。
少しパソコンを開けましたが思うようには見えず、好きな本も読めず、庭にはは花がたくさん咲いていますが歪んでいるので、花を見るのもつらいし、足元がおぼつかないので庭歩きもままならない状態でした。
しかし、何もしないでいることのできない私は、次の日から、忙しさにかまけて整理を怠っていた、洋服の整理に取り掛かりました。
山のように捨てる洋服が出てきて、箪笥や洋服ロッカーはきれいに片付き久しぶりに心が晴れました。
それに3日ほどさいた後、靴の整理と靴磨き、履かないだろう靴は捨て、とても気持ちが良くなりました。
そして次の日は、洗面所の整理、古くなった化粧品やその他さまざまなものを捨て、こちらもきれいになりました。
その日々は神様が家の整理に時間をくれたのではないかと思うほどでした。
その間に1週間後の診察日がありました、
目が見えずらいことを言うと、「手術後は順調で2か月後にメガネを作りましょう。」と言う事でした。
目が見えないというと「そんなものですよ。」といわれました。
毎日毎日、失明の危機にさらされた患者があふれている病院の医師にとって、私の状態などは良い方なのかもしれないと思いながらも、気分が落ち込むのはどうしようもありませんでした。
事実、病室の私の隣にいた方は光と影くらいしか見えない状態だったのですから・・・・・
それにしても思い切り、パソコンができて、本が読めるようになりたいと願わずにはいられませんでした。
2013-04-11