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「女三界に家なし」という時代を生き抜いた亡母を時々思う

「女三界に家なし」という時代を母は生きてきましたが現在には通じない世界のことと思います。

「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界,つまり全世界のことです。

女は三従といって、幼い時は親に従い、嫁に行っては夫に従い、老いては子に従わなければならないとされて、一生の間、広い世界のどこにも安住の場所がなく、女に定まる家なしという意味です。

このように大辞林 第三版には書いてあります。

現在は考えることができないようなこのような現状に、大正生まれの母たちは耐えてきたようです。

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「女三界に家なし」という時代を生きた母の姿

父は好きなように生きた人だと思っていましたし、50歳で脳梗塞で倒れてから、80歳で亡くなるまで母が看とってきたので、父が亡くなった時には母が亡くなった時のように思い出すことはありませんでした。

93歳の天寿を全うしたはずの母が亡くなって、なかなか思いを断ち切れないのはどうしてなのだろうかと思っています。

そんな時に思い出したのが、「女三界に家なし」という言葉でした。

せめて、最後くらい幸せでいてほしいと思った私の思いも通じなかったことが、とっても悲しく思い出されます。

どんなに大変な人生でも、穏やかな最期であってくれればそれでよいといつも思ってきましたが、それはかなえてあげることができませんでした。

私に子供の時の話をよくしてくれた母は、子供時代が一番幸せだったのかもしれません。

戦前の村長の長女として育ち、太平洋戦争のさなかに父の家に嫁いできたのですから、子供時代は恵まれていたのだろうと思います。

父は出征したようですが、すぐに終戦、実家の父は村長を止め、それまでのような生活ではなくなったのかもしれません。

戦後は私たち子供を育てながら、農作業に精を出し、父の弟三人には家を建ててあげ、妹二人の嫁入り仕度を整えるために働きつくした年月でした。

その後、祖父と祖母が同時に寝たきりになり、おむつの世話をして見送った数年後に父が50歳で脳梗塞で倒れてしまいました。

それは4人兄弟の長女である私の結納の日が決まった直後だったので、心身ともに大変だったと思います。

意識不明だった父の症状が落ち着いたときに、母のとった行動は私の婚礼を早めるという事でした。

弟は高校生で、仕事をするのは母だけという状態の中で、子供の幸せだけを願っていたのか、妹もいたために何が起こるかわからない中で婚礼の日を早めるように段取りをつけたようです。

そして次の年に妹が結婚して、家に来るお嫁さんには苦労をさせないようにと気を配っていたようです。

働けなくなった父の分まで働き、全てのことを一人で采配した母の力を私は持ち合わせることがないまま、その年齢をとうに過ぎてきました。

その当時を考えただけでも母は大変だったろうといつも思います。

その後弟にお嫁さんを迎える

私に長女が生まれ、妹に長男が生まれて、家孫も次々と生まれ3人になり、末弟にも3人の子供が生まれたこの時期は母はとっても幸せな時期だったのでしょうが、それまでの苦労がたたったのか、体調がすぐれず、家にこもるような日々が長く続きました。

弟が結婚して落ち着いた時点で、家のやりくりは弟夫婦に任せて、母はあまり口出しもしなくなっていたので、家のことは心配がなく、子守りと家の周りの草取りや家の中の掃除がやっとという感じになっていました。

その当時の義妹は料理も上手で、近所や親せきからは良いお嫁さんと評判のような人でした。

母は、体調はすぐれないものの、父も元気になって盆栽や菊つくりに精を出すようになっていたので、幸せな時期だったと思います。

若いときから苦労を重ねてきた父母が動けるときに、私たち夫婦と妹夫婦で毎年のように旅行に連れて行くようになり、それを父も母もとても楽しみにしていました。

そんな年が数年続いた後に父が脳梗塞を繰り返すようになり、私はそのたびに病院に泊まり込んで看病しました。

そして、私がメニエール病で入院中におきた脳溢血で父は寝たきりになってしまいました。

それまでは、とても平穏に見えた家族でしたが、病人が出ると仕事が忙しいときには、それまでは感じなかった不満をお互いに持つようになるのかもしれません。

義妹も付き合いの多い家に嫁いできて、本当に大変な思いをしたことと思いますし、義理の親との生活がどんなに大変だったかは私にも想像ができます。

母が病気になってからは、私もできるだけのことをしようと思いましたが、交通の便が悪く、往復1時間以上がかかり、車でなければいけない距離ですが、私は運転ができないので夫に載せ行ってもらわなければならないために思うようにはいきません。

施設に入所できたときは、低体温症になった後で、微熱が続いて笑顔を期待できるような状態ではなくなっていました。

しかし、家で面倒を見てもらえないから施設に入った方が良いと思うのは私の勝手で、母にとってはどんな家でも家が良かったことには変わりがありませんからとても難しいことです。

母の体がそれほど弱っていなかったころに、泣いてばかりいたので「私の家に行く?」と聞くと行きたいというので連れてきたことがありましたが、2日位で家に帰りたくなってしまったので戻した経緯があります。

「女三界に家なし」の時代に生きた母の人生を思うと、とてもかわいそうだったという思いをぬぐいきらませんが、それにもまして今後の老人の幸せはとても遠いところにあるという思いはますます深くなっています。

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