東京大学教授安富歩氏の著書です。2.11の東日本大震災による福島原発事故後について、ブログに書きためていたものを元にして出版することになったと書いています。
安富歩氏は経済学者ですが、東大教授でありながら物事を決めつけるというよりは、深く掘り下げながらも柔らかな思考を持って文献に当たりながら納得できる考察を読者に与えてくれます。
原発の恐ろしさを知っている著者は、東京電力や日本政府の対応、国民があまりにも危機感を抱いていないことに驚いたと書いています。
私も戦争の時に原子爆弾を落とされた広島、長崎の惨事は史料館を見たり、本を読んだりしてある程度は知っていましたが、それほどの危機感も抱かず、計画停電に寒さを耐えていただけでした。
その後いろいろと得た知識により原発の恐ろしさを感じ、原発反対の立場をとっています。
『原発危機と東大話法』のあらすじと感想
著者は「魂の脱植民地化」という研究を行っています。
その研究の中で、原子力発電所という恐るべきシステムが安全許容範囲にあると思われてつくられ、それにより爆発したという現実を書いています。
原発を抱えている地方では何度もそのの安全性を説明され、その安全性が壊れれば犠牲になるのは私たち国民です。
どれほど多くの欺瞞の言葉を私たちは信じ込まされているのかと思うと恐ろしくなります。
第1章 真実からの闘争
原子力発電所がどれほど危険なものであるかはこの本を読めば分かりますが、爆発が起きないまでも核のゴミと言われるものは何百年、何千年も保管しなければならないのです。
このようなものを隠蔽を重ねて使い続ける国と研究開発を行っている最高学府の学者が書いている言葉を、著者は東大話法と位置づけています。
隠蔽と言葉を操っていかにも安全であるかのように書いていると言います。
原発がいかにに危険かが書かれていて、その恐るべきシステムを東大という学問の研究家がそれらを隠蔽し、起きた後の危機をも隠蔽し言い換えている現状を、東大教授である著者が東大話法と名付け例をあげて書いています。
それはお金と権力のためであり、東大ばかりでなく、権力者の間でまかり通っているようです。
そんな中でも、原発の危険性を言い続けている学者、武谷三男氏、高木仁三郎氏、小出裕章氏の業績を紹介しています。
第2章 香山リカ氏の「小出現象」論
原発事故によりネットは放射能被曝による心配などで溢れているなか、原発の危険性を発信していた小出裕章氏が注目されるようになったときに、香山りか氏が小出氏が時代のヒーローになった時、原発の情報収集に熱心な人たちの多くが、引きこもりやニートといった人たちが多く、知的レベルの高い人だというようなことを書いたようです。
私は読んでいないので詳しいことは分かりませんが、それらについて純粋に原発の恐ろしさを考えることなく、精神科医という自身の世界から原発という恐怖の「事実の世界」に踏み込むことが出来ず逃げてしまったのだと著者は言います。
著者の歴史に基づき純粋に物事に立ち向かう姿勢を、読み始めたばかりの本から感じ取りました。
第3章 「東大文化」と「東大話法」
この章は東大話法について、東大教授に限らず多くの有名人が書いている文章などを例に挙げながら東大話法の特徴を書いています。
- 底知れない不誠実さ
- 抜群のバランス感覚
- 高速事務処理能力
その特性については上記のようであり、優れた頭脳でそれらしいことを書くことが出来るというのです。
そのような教授は東大教授である著者の周りのもたくさんいると言うことで、関東大震災後に書かれたためにそれらの文章を例にとって、原発について無責任なことを書いている御用学者が数多くいることを指摘しています。
原発という危険性については未知の世界であるにもかかわらず、いかにも分かったようなことを言葉を並べて書いている学者を例にあげながその矛盾を書いていますが、私が政治にわりと興味を持つようになったころから、それらの文章を読んで深い不信感を抱くようになっているのが、このことなのだろうと思いました。
いま、ネットのなどで散見する大学教授やメディア関係者が書いているもののほとんどが読むに他えられないものだと思うようになっていますが、それと関係が深いと感じることが出来ました。
そして、国会の委員会を見ていると、誰が聞いても嘘だと思えるような答弁を繰返している、国会議員、官僚の言葉を聞いていると、日本はどこに行くのだろうと悲しくなります。
毎日このようなものを読んでいると、何が本当で何が間違いか見抜くことばかり考えないといけないことから、少しずつネットの世界から離れて古典を読みたいと思うようになってきます。
第4章 「役」と「立場」の日本社会
私たちがあまり気にすることもなかったのですが「立場」という言葉がいつから使われ出してそれがどのように変わってきたかの説明から始めていますが、1041年くらいに「立庭」から始まっていると言うことで江戸時代に会津藩、そして明治時代の夏目漱石の小説でどのように使われているかを分析しています。
そして太平洋戦争時に戦死者の「立場」から「役」にと導いていきます。
戦死者が遺族に宛てた手紙は、そう書かざるを得ない中で書いたものだと著者と同じように私も思っています。
戦争で死んでいった若者を賞賛するようなことを書いている人が多いのですが、私も著者が言うように若者がこのような覚悟を決めなければならない場面は決してあったはいけないのであり、そのような時代に向かおうとしている一部の政治家の行動を私たちはしっかりと見守っていかなけらばならないのだろうと思っています。
日本は中世から「職」という概念が重要な役割を果たしていたようですが、中世末期から近世初期にかけて「職」の体系が崩壊して新たに「役」の体系が生まれたと言います。
そして「役の体系」の成立は「家」成立と平行しているようです。
現代日本社会は立場主義社会であり、役を果たさないと立場がなくなってしまいます。それを恐れて、体が壊れるまで働かなければならない社会になったようです。
原子力御用学者はその役を熱心に果たすことにより、学者の立場は守られます。社会的に見て高い立場に立つことが出来、巨額の研究費を得ることが出来るので、原発の安全性を説き政権側に立つこと考えるのです。
政治に少しでも興味を抱けば、そのような学者の書いたものがつじつま合わせであることは一目で分かりますが、私たち国民は歯ぎしりしているほかはないのです。
第5章 不条理から解き放たれるために
原発に反対する人は何らかのオカルトに引き寄せられる人がけっこいると書かれていますが、私はそのように思ったこともありませんし、日本の原発を廃止するには数百年、あるいはもっと長い歳月が必要だと思っています。
今、そのような大変な作業があることを承知の上で、立憲民主党はそれに取り組もうとしていますが、そのような思想は国民を引きつけません。
そのような説明をしただけで、立憲民主党の支持率は落ちます。2.11のさなかに政権を担っていた立憲民主党をあげつらうのはどうかと思います。
「直ちに影響はない」という言葉尻だけ捉えて今でも枝野たたきをする人がいますが、本人に言わせれば長い説明の中での言葉であり、それをすべて読んでほしいと言っています。
もちろん政権を担っていたと言ってもすべての人は素人で、原発の危機はどれほどの知識があったのかは不明ですが、あのときにいろいろ隠したのは東電であり、その後東電の職員からの説明もあったようです。
事故後、まもなく安倍政権へと移行してしまい、今は原発反対どころか原発推進になっています。
今は、冷却水を海に流す案まで出ている始末です。
著者が書いているように、起きてしまった原発事故をどのように処理していくのかは政権に任せるばかりでなく、国民ひとりひとりが考えるべき問題だと思っています。
最後に本日の明石順平氏ツイートを乗せておきます。
まとめ
安富歩氏の著書は数冊読んでいますが、難しい内容ですがとても読みやすい言葉で書かれていて、気持ちが伝わってきます。
この著書の中には夏目漱石が出てきますが、私も夏目漱石は好きでかなり読んでいます。
ま、た親鸞にも興味を抱き、歎異抄を繰返し読んでいることからかなり親しみを感じています。
しかし、れいわ新選組から出馬したことについては私にはなぜなのか分かりかねています。
書いている文章を読んで見るとれいわについての感想など納得できるのですが、その中でなぜ活躍しようとしたのかは謎です。
「子供を大切にしてくれると思う党だから」ということは分かりますが、経済学者として何故MMTなのかは理解できません。