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『欲望の経済を終わらせる』井出英策著ー経済の自由より人間の自由 !!

著者の井出英策氏は日本銀行金融研究所勤務を経て慶応大学経済学部教授の財政学者です。

私は読んでいませんが、『経済の時代の終焉』で大佛次郎論壇賞を受賞したということです。

世界を席巻した新自由主義からの脱却を訴えて、個人や社会に何がおきても、安心して暮せる財政改革を提言、人間らしい自由な生き方ができるような社会を私たちに示しています。

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『欲望の経済を終わらせる』のあらすじと感想

世界的なコロナ禍の中で、貧富の差がますます広がっています。バブル崩壊から30年を過ぎても経済が上向く気配もない日本は何処かで政策が間違ってしまったのかと思わされるほど経済成長もなく貧富の差が広がっています。

それを感じながらも、国民は声も上げずに長期政権が続いていて、安倍総理が辞め菅総理となったのですが、安倍政権を踏襲するような政策を行うと言うことです。

それでも、経済成長を掲げていますが、そんな政権に異をを唱え、経済政策よりも、安心して暮せる財政改革を唱えているのがこの本の特徴です。

序章 レッテル貼りとしての新自由主義

新自由主義の始まりは、ノーベル経済学賞を後に受賞したアメリカのフリードリヒ・ハイエクやウォルター・リップマンの「新自由主義の始まり」と評される『善き社会』だったと言います。

しかし、この本によるとその時の新自由主義とは現在の新自由主義とはかなり異なっており、政府の介入を重視する、左派やリベラルに近いカギ括弧付きの「新自由主義」だったようです。

それらを切り捨て現在の新自由主義へと導いたのが、シカゴ学派のフリードマンであり、それを新自由主義へとは決して呼ばなかったとい言います。後にノーベル経済学賞に最も近いと言われた宇沢弘文が彼を悪魔のような顔と苦々しく回顧したということです。

1970年代に入ると高度成長は終わりを告げ、先進国ではケインズ流の大きな政府の行き詰まりがあらわになりつつあった1976年にフリードマンはノーベル経済学賞を受賞し、大きな後ろ盾を得たために現新自由主義は支持され、イギリスのサッチャーは、国営企業の民営化なしとげ、金融市場の自由化、歴史的な所得減税と規制緩和を推進したのがアメリカのレーガン大統領でした。

日本でも1970年代後半には同じようなことがおきていたが、緊縮財政と規制緩和にまい進したのは小泉政権期のことで、格差の拡大は今に続き国民生活を苦しめることになっています。

新自由主義を受け入れなければさらに経済成長率は低下したと言うことも出来るが、経済的な自由が市民的な自由を生み出すという考え方はイデオロギーの一つだと考えることも出来るのかもしれません。

安倍政権の経済政策の、富めるものが豊かになれば、貧しいものにも富がしたたり落ちると言う「トリクルダウン」はまやかしであって、貧富の差を広げたと言うことは特に日本では明確だったと感じざるを得ません。

第1章 新自由主義へ舵を切れ!

個人や企業の自由な経済活動が社会の福祉を最大にするという自由主義の思想がどのような意図で誰の利益のために取り入れられたのか、安定成長期から底生長期へと移行する1970年代から90年代の歴史をひもといています。

詳しいことは本を読んでいただくとして、ニクソンショックによる円の切り上げで1ドル360円だった円が、308円へと切り上げられました。

第4次中東戦争をきっかけに原油価格が4倍に引き上げられたオイルショックでは、東京の街が暗くなったことを覚えています。

その後、経済成長が軌道に乗り始めた日本への国際的な批判が強まり、日本やドイツへの批判を強めて行われたアメリカ大統領選で勝ち抜いたことによるカーターショックがありました。

国内でも大幅な増税、財政再建が繰り返され、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社の民営化と様々な要因が新自由主義へと舵を切って行ったようです。

第2章 アメリカの圧力、日本の思惑

1985年のブラザ合意の円高は年間の金レートで見ると同年、1ドル239円、翌年には169円へと上昇、2年後には128円となり二倍以上に上昇し、今の日本ならパニックに陥りそうな大変動が起きました。

円高が進むと日本製品は割高になり輸出は減ります。しかし歴史的な円高にもかかわらず、不思議なことに対米貿易収支黒字はそれほど減りませんでした。

その上輸出量は減らなかったために輸出価格の上昇がすすんだ上に円高が連続しておこったために黒字は1987年まで増大を続け、プラダ合意以前の水準をはるかに超える黒字が積みあがってしまったようです。

日本の輸出黒字はブッシュ大統領、レーガン大統領ともにアメリカからの要望が強まり、一方通行の議論になったと言います。

内需拡大を誘導することをもとめられ、増税なき公共事業を求められたのは、クリントン大統領の時であり、減税先行などを行いアメリカの圧力により景気は減退し、不正規雇用が増えて日本の景気は減退し、新自由主義へと大きく舵をきっていくことになります。

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第3章 新自由主義の何が問題なのか?

「5月に前任者から引き継いだとき、驚きました。米びつが空っぽで、その上『やりくり算段』をして、先送りすることで特例公債ゼロと言う予算を組んでいました。しかしそのやりくりももはや限界に来ていました。

これは1995年5月に大蔵省の主計局長に就任した小村武の回顧である。

1994年度からはじめられた所得税減税の穴をうめるため赤字国債が発行されていました。1997年4月に消費税率の引き上げが決定されていて返済のめどがたっていることなどと位置づけていたようです。

しかしこの苦しい状況に終止符を打つべく、当時の大蔵大臣の武村正義と相談して、1995年11月「平成8年度の財政事情について」が公表されました。

これを受けてマスコミはいっせいに『財政事情」を報じ、『財政構造改革」という言葉がメディアに定着するようになります。

しかし、1997年7月にタイのバーツが暴落をしたことをきっかけとしてアジア通貨危機が起こり、11月には北海道拓殖銀行、山一証券といった大手金融機関が経営破綻、大手金融機関の破綻は戦後初めての大事件でした。

1998年4月9日首相だった橋本龍太郎は大型減税を表明、5月には赤字国債の発行が容認されることになりました。小渕内閣と続くのだが緊縮財政の時代がやってくることになります。

新自由主義が全面化したことで知られる小泉内閣で、道路公団や郵政の民有化、公共事業を大幅な切り下げ、三位一体改革など、都市に住む人々との利害と調和していて、都市化と無党派層の拡大と彼らの不満が緊縮財政と共鳴しあっていたことで、新自由主義が日本社会に根をはって行く過程を考える上で重要な変化だったようです。

地方交付税を減らし、地方が疲弊することにより都市への一極集中、財源を減らすために行革を目標に掲げ、公務員の人件費削減を行うことになりました。

量的緩和政策により、中高所得者が安い金利で住宅ローンを組み、設備投資などの資金を得た大企業、株や不動産のなどの投資のために借り入れる富裕層へと流れ、巨大な所得「逆」再配分を起こしかねないさまでした。

小泉政権下では「トリクルダウン理論」が強調され、成長すれば所得が増え、富はかならず低所得層にももたらされると、格差を拡大するためのアクセルが猛烈な勢いでふかされていたと言うことです。

第4章 経済を誤解した新自由主義の人びと

当たり前のように使われている「経済」とは何を指すのだろうか。

当たり前のように使われている経済ということば、これを辞書で見てみると、「金銭のやりくり」というおなじみの定義と同時に、「人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係」と書かれています。

経済人類学者カール・ポランニーは上を満たすことや尊徳だけでなく、その社会で尊ばれる価値を実現しようとする欲求を満たすための物質的手段に注目し、その手段で欲求を満たすプロセスが生み出すもの、これを経済とポランニーはは位置づけたのだと言います。

経済の歴史を著者は説明し、ケインズ経済学で行き詰まり、新自由主義へとアクセルを踏んで、貧富の差を大きくした今の社会は歴史の転換点にたたされていると言います。

「経済」を作り替えるためのポイントは、人々が生きる、暮らすための共通のニーズを満たし合う、「人間の顔をした財政改革」を「欲望の経済」に退治させることである。

収入の多い少ないがすべてを決める時代は終わる。僕たちは、本来の「経済」のすがたに立ちかえり、満たしあいの領域、すなわち、命とくらしのための土台をもう一度作り替えていかなければならない。

発想さえ変えれば、私たちはとても愉快な時代を生きているのかもしれないと結びます。

第5章 頼りあえる社会へー人間の顔をした財政改革

財政をどのように作り替えるかという問いに答えるには避けて通れないのが税の話だと言います。

すべての人が人間らしく生きるには、すべての人が同じように傷みを分かち合う、消費税を上げることが大切だと言います。

もちろん、今の税制の一億円を超えた人の税金の不平等や株式譲渡などの優遇制など改善しなければならないものも多いが、基本的には同じように傷みを分かち合う消費税によって賄われることが良いという理論を述べています。

今、多くの国民が、消費税は低所得者に厳しい税制だといっていることに対して、それは間違いだと言っています。私もそのように思いながら、それを生まれた時から新自由主義の世界に浸ってきている方に浸透するのはとても難しいと考えます。

著者は、すべての人びとに、教育、医療、介護、子育て、障害者福祉といった「ベーシックサービス」を提供すれば、老後資金を貯蓄する心配もなく生きることが出来るし、病気になって生活が苦しくなってもお金の心配がなく、自分らしく生きられると言います。

所得税や法人税からはそれほどの税収も上げることが出来ないことを理論的に考えています。

国の借金が積み上がっている、少子高齢化社会において、「ベーシックサービス」により経済を回すことによってしか、国の経済は回らないだろうと言います。

政府が老後のために2000万円の貯蓄が必要だと言われれば、若い世代までひたすら貯蓄にせいを出すような社会では経済成長も停滞するばかりだし、経済成長がなければ国の成長もなく、賃金も上がらないのが現状だろうと思います。

著者が言うように私たちは今の新自由主義から抜け出し、すべての国民が将来の心配のない社会を作ることしかないのだろうと思います。

第6章 リベラルであること、そして国を愛すると言うこと

「今の日本で最も重要な問題は何だと思いますか」という質問に日本の人達は58.1%が「経済」と答えています。調査した36カ国の中でダントツに1位だと言うことです。そして上位にくるのは旧社会主義やアングロサクソン諸国が多いと書いています。

失業の心配をし、年収に満足できず、仕事は面白いとは思えないにもかかわらず働く必要があり、生きる上で経済が最も重要だと考えざるを得ないのです。

日本は経済的格差が広がり、世帯所得が300万円未満の世帯所得が33.6%、400万円未満が47.2%だと言います。ここから税が引かれるから手取りは200万円台半ばから300万円前半位なのだろうが、生活が苦しいと答える人は6割に達するが、わずか4.2%しか自分は「下」だとはみとめず、それ以外は中流意識を持っていると言います。

母子家庭では生活保護よりも低い収入でやりくりをしていても声を上げずに暮らしているのも、日本の差別意識のためなのでしょう。

リベラルは社会的な弱者に焦点をあわせ、ナショナリズムや暴力とは異なるかたちで社会全体の連帯感をどう形成するかという視点が弱いといいます。

2019年の参議院選挙で躍進した、「れいわ新選組」はすべての人びとのくらしの底上げを訴えたことに触れています。

消費税ゼロを訴えた政策についてその訴えが何を意味するものか、何が間違っているかを数字をあげて説明しています。

また、一部のリベラルの人が問題にした「ベーシック・インカム」についてもその財源に触れ社会保障をなおざりにするものだと言い、ベーシックサービスを提案しています。

終章 自由の条件を語るときが来た!

政府を小さくし、人間が自由な経済活動を行うという新自由主義は未だに世界で無視できない力を保っています。ノーベル賞を受賞したポール・クルーグマンはリーマンショックを経てもなお「市場原理主義が間違っていたにもかかわらず、政治的な場面を以前にも増して完全に支配する」と予見しました。自由な経済活動という言葉は介入することより耳障りが善く、無駄を省き小さな政府をという言葉は多くの人から支持されています。

最近、ベーシック・インカムと言う言葉も政治家の間から聞かれるようになっていますが、自由に使えるお金が入ってくることにより、社会保障が削られお金の使い方を知らない人が老後保障がなくなることにも繋かることの不備を説いています。

無駄をなくすことを掲げ、公務員を削減、公共医療を削減した結果、今回のコロナでは医療崩壊を起こし、検査も出来なくなったことでも明らかだと思います。

これまでの反省に立ち小さな政府から大きな政府へと

現状は所得によって受けられる保証が網の目のようになっていることから、社会の分断がおきやすくなっています。何処かで線引きをして、所得のない人は大学も無料になりますが、その線引きに不満を持つ人も多いのです。

そこで著者は消費税を軸に一定以上の収入や資産を持つ富裕層や大企業への課税でこれを補完し、それを財源として、すべての人々に医療や介護、子育て、教育、障害者福祉などのベーシックサービスを提供することを提案しています。

他方、社会的、経済的条件によって他者と均等になれない人びとに対しては、富裕な人よりも少ない税負担を、富裕な人より相対的に手厚い保障を提供することを目指します。

生活扶助、住宅手当、職業教育・職業訓練を充実させます。これらの政策パッケージのもとでは、ベーシック・サービスの提供により低所得層も含めた幅広い人びとの基礎的な生活が保障されます。

課税面では消費税を軸とすることで、低所得者も痛みを分かち合うことになります。線引きをして対立を煽ることは、社会的に多くの損失を生むという考えの元に立っています。

プロリベラルという立場に立って「誰かを救う社会」から「ともに生きる社会」を転換を個々に書いています。

新自由主義の生活に慣れた私たちは、今までと違った社会を目指すことは、いろいろと戸惑いもあるのだろうと思いながら、読み進むことになりました。



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