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自分が見ている私と他人が見ている私の距離

私は毎日幾度となく鏡を見ています。

特に網膜剥離になって目の腫れがひかなかったとき、その後眼瞼下垂になって目をあけるのがつらくなったとき、その後眼瞼下垂の手術をして腫れがひかなかったときは、それまでよりも鏡を見る回数が増えました。

それまでのわたしと変わってしまったことがとても辛かったからです。

他人の顔など他の人は気にしないと聞いても、やっぱり気になりました。

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自分が見ている私と他人が見ている私は同じではない

眼瞼下垂の手術の後はかなり腫れがひどく、何とか落ち着くまでに3カ月近くかかりました。

まだ、違和感はありますが、このまま回復を待てばよいと思った時点で、自分を受け入れることができました。

容姿がすぐれていると思ったことはありませんが、自然に老いて変わっていくことはすんなりと受け入れられても、ある日を境に変わってしまったことに対しては、受け入れるのに時間がかかることを思い知らされました。

欲を言えば、納得の行く結果ではありませんでしたが、それでも納得のできる自分に出会い、1年数カ月ぶりにすっきりとした気持ちになっています。

視力はかなり悪くなりましたが、それだけの年月を重ねれば、見えないことにも慣れてきましたので、見えにくい自分も受け入れることができるようになっています。

生きていれば誰でも通らなければならない変化と向き合いながら老いていかなければならないのだろうと思えるようになっています。

そんな日々に気が付いたことは、私が見ている自分の顔と、他の人が見ている私の顔はかなり違うという事でした。

鏡の中の私は、他人が見る私ではなく、目線はいつも変わることがありません。

うつむいた私を、自分では上から見ることはできないのです。

そう考えると、自分の容姿さえ限られた部分しか分からないことになります。

そんなことも考えないで、鏡を見た自分が自分のすべてであると錯覚していた自分に唖然としました。

自分で見ることのできない多くの部分を持っている私を、良く見せようと躍起になっていることはかなり愚かしいことなのだと思いました。

自分が気にしているほど人は見ていないと言いますが、自分が見えないものを他人が見ていることを思えば、自分をさらけ出して生きても何の不都合もないように思えました。

まして、自分の心の中でさえ分からないままに生きているのが現実です。

おぼろげながら、来たところは分かっていますが、何処に向かっているのかは自分でも皆目見当が付きません。

未来は自分の力の外にあり、誰もが出会ったことのない道を誰もが歩いていると言っても過言ではないと思います。

明日のことも分からないと言いますが、1寸先のことも分からないまま生きているのが私たち人間なのです。

人間に限ったことでなく、全てのものにとっても同じことなのだろうと思います。

それだからこそ、点である時間を精一杯生きたときに、自分の生き方に満足できるのかもしれません。

ほんの小さな点である私ですが、私は点としての自分の生を受け入れて生きていくほかはないのだろうと思っています。


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