『幸せになる勇気』は『嫌われる勇気』の続編であり、アドラー心理学のより実践的な内容を書いています。
私は『嫌われる勇気』も発売当時に読んでいますが、『嫌われる勇気』よりも実践的である『幸せになる勇気』の方を難しいと感じました。
文章は読みやすく難しいところはないのですが、現在の私がいざ実践しようと思った時にとてもできないのではないかということです。
『幸せになる勇気』はアドラー心理学を少しわかった段階、『嫌われる勇気』を読んでからの方が理解しやすいのではないかと思いました。
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『嫌われる勇気』でアドラーの思想を学んだ青年にとっても実践は難しかった
『嫌われる勇気』でアドラーの思想に感化された青年は教師となり、哲人に学んだアドラーの思想を実践しようとしたが子供たちとの関係、まわりの教員との関係もうまくいかず、再度哲人の書斎を訪れることになりました。
そのようにアドラー心理学は頭の中で理解するよりも実践の難しい心理学と言わざるを得ません。
読みながらずっと考えていたことは青年が再び哲人の書斎を尋ねてきたように思想は分かったと思いながらも実践は難しいものだということです。
しかし、読み終わって思ったことは実践が難しい思想だからこそ、その思想に触れたことは今日を生きる勇気を与えられたのではないかということです。
過去や未来を考えず、現在をどのように生きるかを考えるアドラーの思想は、現在悩んでいることに対して最良の選択を選ぶ勇気を与えてくれるような気がしました。
それゆえに、アドラー心理学とは生きている限り考え続けなければならないという思想であり、哲学と近い考え方なのだろうと感じました。
教育の目標は自立である
青年の悩みは教師として子供たちとどのように接したらよいかという大きな問題を抱えているのでこの本では教育について多くが割かれています。
アドラー心理学の行動面の目標は
- 自立すること
- 社会と調和して暮らせること
そしてこの行動を支える心理面の目標が、次の2つでした。
- 私には能力がある、という意識
- 人々は私の仲間であるという、意識
そしてこの4つの目標は教育現場はもちろん私たち大人の生き方の目標になるといいます。
「自立」という目標を置き去りにしてしまったら、教育やカウンセリング、あるいは仕事の指導も、強要と変貌すると言います。
われわれは自らの役割に自覚的であらねばなりません。教育が強制的な「介入」に転落するのか、自立を促す「援助」に踏みとどまるのか。それは教育する側、カウンセリングする側、指導する側の姿勢にかかっているのです。
そして教育、指導、援助が「自立という目標を掲げるとき、「教えられる側」に立つ人を尊敬することが大切で、尊敬のないところに良好な対人関係は生まれないと説きます。
そして「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、そのひとが唯一無二の存在であることを知る能力のことである」と言い、尊敬とは、いわば「勇気付け」の原点であると言います。
しかしそれによって問題児が変わるという保証はなくても、指導者が介入できることではないというのがアドラーの思想です。
自己への執着から逃れ、他者に関心を寄せることにより「共同体感覚」に到達できると考えたアドラーは「他者の関心事」に関心を寄せるということで、それは子供たちを叱ってもほめてもいけないという教育に繋がっています。
アドラーは賞罰を否定する
褒めることはやる気を引き出し、とても良いことのように思われていますが、アドラー心理学の中では褒められることを目的にしてしまうために自立の妨げになるということのようです。
叱ることの是非については、私たちもかなり考えていると思いますが、褒めて伸ばすという指導は正しいことのようにとらえられているのではないでしょうか。
しかし、褒章は競争を生み、承認欲求にとらわれた人間は、他者から認めてもらうことを願うあまり、いつの間にか他者の要望に沿った人生を生きることになると言います。
考えてみれば、良い子で通った子供が成人して問題行動を起こしたということを聞いたことがあります。
いつもいい子でいなければならなかった子供が、自立ができなかったということになったのではないかと、今になって思われたことです。
良いと思って褒めた教育が、自立を阻んでいるとしたら私たちは考えなければならないことを多く含んでいるような思いにおののきました。
アドラー心理学は青年が持つ疑問を一つずつ解決してくれなければ納得できないような難しい生き方を私たちに突き付けていますが、読み終わった時にどこか納得させられていることに気づきます。
しかし、日々の生活の中で自分勝手に生きている私にとって、それを実践できる強さを持っていないことをあらためて感じさせられたことでした。
更新時追加
2017年は当初から安倍政権への忖度の「森友問題」「加計問題」で暮れましたが政権への忖度問題、いわゆる出世のために政権に気に入られようとした官僚の問題が大きな疑問符を呈したことが批判の元なりました。褒める教育の問題点が人間をだめにする良い見本を国民に教えてくれた年でもあったようです。
大切なことは自分の信念を曲げてはいけないという最小限のことをも優秀な学歴の大人が守らないことで、ほめて育てられた官僚が教えてくれたような気がします。
嘘を重ねた政治家、官僚はどのように内面と向き合っているのだろうと感じています。
アドラーを知り、アドラーに同意し、アドラーを受け入れるだけでは、人生は変わりません。しばしば人は、「最初の一歩」が大切だと言います。そこさえ乗り越えれば大丈夫だと。もちろん最大のターニングポイントは、「最初の一歩」でしょう。
しかし、実際の人生は、何でもない日々という試練は、「最初の一歩」を踏み出した後から始まります。本当に試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。ちょうど、哲学がそうであるように。