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『暖簾』山崎豊子著|小倉 屋 山本の「のれん」をまもる努力を書いた処女作

山崎豊子の生家をモデルに書いた処女作で、父の山崎菊蔵と実兄の三代目山本利助氏の大阪商人としての生きざまが色濃く反映されているようです。

『大地の子』、『沈まぬ太陽』などを先に読んでいたのですが、『花のれん』を読んだことにより『暖簾』もぜひ読んでみたいと思いました。

山崎豊子の生家が現在も続いている「小倉屋山本」であることは知っていましたが、機会がなく読んだことがないことから興味を持って読み始めました。

大阪商人の生き方とは遠いところでのんびりと育ってきてしまった私は、大阪商人が商才と根性をあらためて知ったことになりますが、ここに書かれている根性と商才は現在に生きていくときの知恵としてとても大切なものだと感じました。

身を惜しまず、体で覚え、そこにいつも新しいものを作り出そうという根性が一流のものを作り出すことに繋がるのではないかと思いました。

そのような親や兄の姿を見て育った山崎豊子は、のちに社会派作家と言われるような大きな問題を丹念に調べ上げて書いていくことになったのもうなずけることでした。

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『暖簾』のあらすじと感想

「たった45銭を握りしめて、八田吾平は大坂へ出た。明治29年の3月のはじめがその日だった。」から書き始められている、淡路島から出てきた15歳の吾平が吾吉と名を改められて昆布屋の五代目難波屋利兵衛に奉公することになります。

丁稚からたたき上げ、苦労の末に築いた店が太平洋戦争で焼けてしまうまで

今に続く大阪の老舗の奉公は厳しく、寝るまもないくらい働くことになりましが、負けん気でえらい商売人になると歯を食いしばって励んだ甲斐あって、旦那はんのお眼鏡にかなうようになり、人より早く番頭になりのれん分けをしてもらえることになりました。

のれん分けしてもらったのちは吾平と改め、旦那はんから教わった「何事堪忍」の言葉を守って、夜寝る間も惜しんで働き、半年後に旦那はんの勧めてくれた働き者のお千代と結婚、4年後に男の子が生まれたのをきっかけに3男1女の子供にも恵まれて、その才覚を活かし早くから百貨店との取引をはじめ、手代や丁稚を置くようになります。

第一次欧州戦争がはじまり、移入数量が減った時には北海道まで行って浜で昆布を買いつけるようにもなっていたが、関東大震災により東京までついた昆布が焼けてしまい、もう一度北海道に行って買い付けてくるという苦労もしていました。

商いが大きくなって店が狭くなった時に借金をして建てた加工場が昆布ごと大雨で水につかった時には、加工工場の立て直しに借金に回りどこも貸してくれるところがなかったが、日参してのれんを抵当に入れて借りることができたというのは貸す方も大阪商人の根性を見抜いたのだろうと思いました。

長男の辰平は高等商業、次男の孝平は大学に進学したが、家に帰れば商売の手伝いに精を出すことになりました。

ノモンハン事変が勃発して日華事変が拡大したころ長男の辰平が招兵され、続いて次男の孝平の招兵、長男の辰平の戦死、三男忠平も招兵されるが、その間に昆布は統制商品となり、商品が入ってこなくなったうえに加工工場は軍需会社に買い取られることになってしまったのです。

そんな折、大阪空襲により、店も加工工場も焼けてしまい吾平が築いたものはすべて失せてしまったのです。

降り出しに戻った吾平の後を継いだ大学出の孝平が元の場所にのれんを上げるまで

大学出の孝平は降り出しに戻った吾平の後をついで戦後の動乱期から高度成長期にかけて体をはって昆布を学び、大阪の百貨店だけでなく東京の百貨店にも売り場を設けて先見の眼と確かな商人としての才覚で商売を広げていき、吾平の店にのれんを掛けるまでを書いています。

焼け野原となった大阪に復員してきた孝平は、戦後の物不足の時には闇市を回ってさやを稼いでいた時期もありました。

そんな孝平の働きが目に留まって、近畿昆布荷受組合から招かれて、自ら荷受け現場の担当を願い出たが、昆布の見分け方が分からず苦労の連続、そんな姿に父は体で覚えるほかはないと突っぱねます。

吾平が自ら苦労したことでもあり、悔しい思いもしたことでもあることから、何事も頭ではどうにもならないことを言っているのであり、現在の若者にこそその事実を知ってほしいと思いながら私も読みました。

どんなに社会が変わろうとも失敗しながら覚えなくてはならないことは時代を超えてあると、現在に生きている私たちに教えてくれます。

何かというと、「教えてもらわなかった」、「聞いたことがないと」いう人が、多くなっていると思いますが、体で覚え身となってこそできることもあるのだと思いました。

どんなことでも、ものを見る目というものを養い、できなかったらできるまで頑張る根性が、東京進出のために作り出して人気を集めた「磯菊」の商品化だったのだろうと思います。

「磯菊」は多くの人に知られるようになり、東京では大阪の老舗の店を数か所に出すようになったころ、父の店があった立売堀に父の代のままの浪花屋を立派に復興させたのでした。

父が亡くなってから帰還して店を手伝ていた三男の三男忠平も感無量のようでした。

この小説は山崎豊子の実家の小倉屋山本をモデルにしていますが、あくまでもモデルであってノンフィクションではないので、小説として再構築をしていると思いますが、大阪商人の商才と、英知にあふれていた方だったことが今もなお、老舗の名を持って大阪にあるのだろう思いました。

私は大阪という土地柄を何も知らない人間ですが、小説から大阪商人がどのように生きてきたかは感じることができました。

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