なぜか毎日のように村上春樹の本を読んでいますが、私は好きな作家に出会うと高校生のころからこのような読み方をしてきたのだと思い出しています。
同じ作家の本ばかりを読んでいると、一冊を読んだのとは違ったその人の考え方や生い立ちまで分かるために言わんとしていることも、内容もより理解できるように思うからです。
ハジメは1951年1月生まれで、村上春樹は1949年1月生まれ、この小説が出版されたのが、1992年ですからこの小説は、村上自身が生きてきた時代を書いていることになり、時代背景がリアリティをもっていることになります。
私もその時代の近くを生きてきたのでそのような意味から若い方が感じているのとは違った時代背景が見えてきます。
よくも悪くも一億総中流と言われた時代で、子供の貧困とか老人問題などはどこからも聞こえることはなく、日本の繁栄の真っただ中に青春時代を送った世代です。
言ってみれば高度成長期を走り続けて、その数年後にバブルがはじけて経済が下降してくる前の、それほど豊かではなくとも、生まれた時よりは豊かになっていく実感が持てたと思えた時代の物語です。
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『国境の南、太陽の西』のあらすじ
小学校の5年生の時に転校してきた島本さんは、小児まひの後遺症で少し足が悪かったが、とてもしっかりした女の子でした。
家が近い生徒が転校生のケアをするのが学校の方針だったため、家が近かったハジメは隣の席に座った島本さんの面倒を見ることになり、急速に親しくなって行きました。
一人っ子が珍しい時代に、お互いが一人っ子同士ということもあり心を通わせることが多かったのですが、音楽や読書が好きという共通点があったことがお互いを引き付け合って、かなり頻繁に島本さんの家に行って音楽を聞いたりしました。
お互いにひかれあっていましたが、小学生のハジメにはどのように扱うべきかも分からなかったが、早熟な島村さんは結婚したら子供を何人作ればよいかということも考える子供でした。
中学に入るころにハジメは違う街に移り、中学校も別々になってしまい最初のころは何度か尋ねたが、そのうち合うこともなくなってしまいました。
中学生という微妙な年ごろが、そのようにさせたようですが、島本さんのことはいつまでも忘れなかったし、その暖かい記憶によっていつも励まされ、心の中にはいつも特別な部分を開けていたといいます。
高2年の時イズミというガールフレンドができて親しくなったが、イズミは慎重に事を運ぶ性格でハジメの欲望は満たされなかったが、ハジメも島本さんを思っていたし、大学は東京に行くことにしていたことがイズミには最後の線を超えることができない理由のようだったが、ハジメもまたどこかでイズミに対して納得のできないものをもっていました。
そんなある日、イズミの従妹の大学生と熱烈なセックスを繰り返したことがイズミにわかり、イズミは会ってくれなくなり、絶望のあまりか希望の大学も落ちて、あまり名の知られていない女子大に入ることになりました。
ハジメは希望の大学に入り、教科書を出版する会社に就職してその間に何人かの女性と付き合ったがそれほど親密になれる人がいないままに数年が過ぎました。
旅先で土砂降りに会い雨宿りをしていた時に出会った2人のうちの一人有紀子に吸引力を感じて結婚しました。
有紀子の父親は不動産会社を経営していたことから、ジャズバーのようなものを経営するようになりハジメにはそのような経営の才能があったようで、経営は成功して二つ目の店を持つまでになって女の子の子供も二人になっています。
そのお店に見違えるように綺麗になり、足も治っていた島本さんが訪ねてくるようになり、前にもまして惹かれあうようになりますが、島本さんの生活も住んでいるところもすべて謎のままです。
ハジメはすべてを捨てて島本さんと一緒になることを思い始めて箱根の別荘で一夜をともにして、朝になたらすべてのことを教えてくれるということでしたが、朝には島本さんは消えていました。
妻の有紀子はハジメが好きな人がいるのに気が付いていたようで、別れたいなら別れてもいいと言ったが、ハジメには決断が付かないままでした。
そのような日が続いたある日、28歳の時偶然島村さんらしい人を街で見て、つけていったときに、もうこのようなことはしないでほしいと男の人から封筒に入った10万円をもらったのだが、それがカギのかかっていた引き出しからなくなっていました。
また、車を運転していて島本さんととてもよく似た人が足をひきずって歩いていましたが、確かめることができませんでしたし、その時には島本さんの足は直っていたのでひきずることはないはずでした。
その時、タクシーからハジメを見ていたイズミにも会いましたが、イズミは無表情のままでした。
そんなことがあった後の数日は誰とも口を利くことさえできないでいたが、いつの間にか島本さんのこともガラス越しに見ているような気持ちになり、妻の有紀子ともう一度やりなおすことにしました。
『国境の南、太陽の西』の読後感
村上春樹という人間の感性なのだろうが、ハジメはとてもものごとに熱中する性格で、恋人を選ぶのも内面的なものを重視するようです。
この物語を読んでいて、島本さんはもしかしたらハジメ自身の中に住んでいる恋人であり「欠落感」「喪失感」を埋めてくれる彼自身の幻想のような存在で、太陽の西に住んでいたのではないかと感じました。
たぶん37歳のハジメが島本さんに対して思うような女性は太陽の西に住んでいて死をはらんでいる存在のように思われました。
どこかで、理想の女性を考えてながら、イズミに対してとても好意を抱いていたのに、いつかは別れることになるのだろうという思いを捨てきれなかったこと、イズミの従妹と性的関係を持ったことはイズミを傷つけることになったが、自分自身も深く傷つけてしまうことになり、私もその中の一人ですが、大方の人がそのような傷を抱えて生きているのを感じさせてくれます。
有紀子のことは最初から吸引力のようなものを感じ、数カ月で結婚することになりますが、有紀子、島本、イズミと相違点の違った女性を描いていることも物語を引き立てているのかもしれません。
有紀子とは音楽の話も本の話もあまりしないようで、吸引力があり好きになって結婚したと言っても、どこにでもいる夫婦の関係のように感じられます。
有紀子には何も尋ねることがないままにハジメは自分の考えだけで物事を決めようとしていることについては男の身勝手さが見え隠れします。
女性にとって(私は女性なので、男性の気持ちは分からないが)、結婚生活はかなりしんどいものだと思いますし、ハジメと有紀子が仲直りするときに、またいつかどちらががどちらかを傷つけてしまうこともあるかもしれないというように危険をはらみながら日々を送っているのが夫婦かもしれません。
結婚生活とは(離婚してしまう人も多いですが)、離婚まで至らない生活の中で、いつ破綻するか分からない綱渡りのような生活を余儀なくされているのだということを書いているのだという思いがあります。
この小説が「ねじまき鳥クロニエル」を書いている時に詰め込み過ぎだということで分離したとどこかで読んだことがありますので、夫婦の井戸堀の物語と読めるかもしれないと思いました。
「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」の中で、夫婦とは井戸掘りのようだと言っているのを私は納得しながら読んだので、そんなことを読み終わってから思ったものです。
生と死のはざまに住むのかもしれない島本さんが、ハジメの心の中に大きな位置を占めた時夫婦はかなり危うい状態になり有紀子も死の世界に行こうとしたように見えました。