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広告 政治・社会問題

10年後に介護難民が45万人|政府の政策に期待

介護難民とは介護が必要な高齢者であっても、家庭でも施設でも病院でも介護を受けることが出来ないもののことであり、私たちにとってももっと若い方にとっても大きな社会問題となりますが、今現在も見えないところでたくさんの介護難民がいると思っています。

昨年、とってもかわいそうな思いを経験しながら母を亡くしましたが、介護難民と呼ばれる状態ではなかったものの介護が必要となっている高齢者にとって、みじめさは変わりません。

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10年後に介護難民が45万人ー母を看取った私も介護難民の予備軍

厚生労働省のホームページには次のように書いてあります。

高齢者が尊厳を保ちながら暮らし続けることができる社会の実現を目指して

高齢者が、介護が必要になっても、住み慣れた地域や住まいで尊厳ある自立した生活を送ることができるよう、質の高い保健医療・福祉サービスの確保、将来にわたって安定した介護保険制度の確立などに取り組んでいます。

厚生労働省ホームページより

母の晩年の寂しさは言葉に尽くせない

昨年老人性うつ病と認知症でとてもつらく、寂しかった母は家族の中で地域の施設で介護をしていただきましたが、寂しくて寂しくて気が狂いそうな状態のまま、体力がなくなって亡くなりました。

多分、家族も施設の方も精いっぱいの介護をしてくださったと思いますが、その状態をつぶさに見てきた私にとってはとてもつらいものでした。

一番大きな問題は老人性うつ病や認知症について介護者の無知が多きかったと思います。

最後まである程度のことはわかっていた母でしたが、ほとんど無視されいつも「言うことを聞かない。」で片付けられていました。

デイサービスを利用するようになった時に母は私に「私が行くことなのに私には何の相談もなく決められてしまい、朝になって今日は行くのだよ。」と言われるままにしていると寂しそうに言っていました。

その時期は老人性うつ病のためにどこにもいきたくない時期だったようでしたが、うつ病の病状が分かればもう少し傷つくことが少なかったのではないかと思います。

老人性うつ病になって、頭がぼーっとして大変だった時も、内科に連れて行きどこも悪くないと言われたというので仕方がなく私が精神科に連れて行ったら、ある程度辛いうつ病は収まったようでした。

そのころから出かけるのが楽しくなり、一人でいるのが寂しくて仕方がないというのでショートステイの日を増やしてもらったらというと、私に言ってほしいと言い、一緒に住んでいる義妹には言いにくいようでした。

義妹はいろいろ言ったり、暦に丸を付けておいたりするとうるさいからと何事も母に言わずに勝手に決めてしまうと私に言っていました。

私も同じことを言われれば、分かっていても面倒に思うことがあるので仕方がないことは分かりますが、老人性うつ病の症状をはっきり知ったのはそのころです。

何も教えてもらえず、物忘れが激しくなった母は、何を言っても親身に聞いてもらえないと、泣いていることが多くなり本当に困りました。

私もそのころは度々行っていましたが、母が世話になっている手前言いたいことも何も言うことが出来ませんでしたし、何を言っても聞く耳を持たない人でしたので、ケアマネージャーさんに言ってほしいと頼みましたが断られました。

もし、厚生労働省が掲げる「住み慣れた地域や住まいで尊厳ある自立した生活を送ることができるよう」にするのでいたら、共に生活している家族の教育なくしてはできないと思いました。

一緒に生活している人にとって、そんな大変なことが出来ないということは私も分かっていますが、同じように手をかけないでも言葉かけだけでも介護は楽になるのではないかと思いました。

命令をして言うことを聞かないというのではなく、よく話せばわかるだろうと私が接していて思うことはたくさんありましたが、何も言えないのが外にでた娘の辛さでした。

いつもいつも疎外感を感じながらも、自分の家が一番良いと思っていた母は、施設で亡くなりました。

施設にはお金がかかるから絶対入れないと言っていた義妹は、手がかかるようになったらがらりと考えが変わり施設入所を希望してなかなか入れないと私にコネを探してくれという口ぶりでした。

その数か月後に、施設入所が決まりましたが、トイレは最後まで使っていた母が、真冬の寒い夜にトイレが見つからなくなって低体温症になったため入所させてくれたようでした。

施設に入れないと頑張っていた時期に、義妹は最期の面倒を見てくれる人でないことがわかっていたので、私がケアマネージャーさんにかなり前からお願いしておいたことが功を奏したのかひどい状態になって間もなく施設に入ることが出来ました。

住み慣れた家で最期を迎えることが出来るのは理想ですが、四六時中誰かが見てくれる施設での生活になって私の心は安定して、気兼ねなく母に会いに行けるようになりました。

我が家に連れて来ても、住み慣れた家が良い母は、家に帰りたくて仕方がなく、結局私にできることは限られていました。

政府も理想を掲げるのは簡単ですが、そのような事情を知った上での政策を考えてほしいと思いました。夫の親を介護できるような家族はもういないと思います。

介護疲れの無理心中、介護のために会社を辞めて生活苦に陥っている方、虐待など悲しいことが多すぎる時代になっています。

介護難民先として地方移住が考えられいるという

介護難民が増え続けている現在、都市圏では土地が高く介護施設を作ることが出来ないからと地方移住をして介護難民を少なくしようということが具体的に考えられ始めているようですが、これも多くの問題点を含んでいるようです。

高齢になって住み慣れた土地から風土も気候も異なる地域で生活できるのだろうかとの疑問のほうが大きくなります。

誰もがいずれは自分に起きることとして考えられれば、もう少し良い方法を考えるのでしょうが、他人事としか考えないから具体性のないことばかりが掲げられてしまうのではないかと思います。

私自身も数年後にはどうなっているかも分からない身でありながら、その時のことは何も考えていませんし、施設に入るほかはないと思っていても入所できない状態ですから、介護難民の一人になるのかもしれません。

1周忌に義妹は母のことなど遠い出来事のように明るく接していた

もともと義妹は付き合いが上手で話し好きで良い人で通っていたので、何か事が起きなければとっても良い人です。

ただ、お嫁に来た時から母はすべてを任せていたので、家の中のことはどんなことでも自分の思い道理にならないと気が済まないようなところがあり、母でさえ何も言えない存在でした。

父の介護も母が一人でしていたので、高齢の母にとっては辛いこともあったようですが誰も手伝ってくれる人がいなかったようで、本当につらい時には遠くに住んでいた私のところに泣きながら電話をしてきたことも何度もありました。

感染症になり、40℃近い熱が出た時も救急車を呼ぼうともしない義弟と義妹に200キロ以上も離れていたところから母に呼び寄せられた私は腹が立った経験があります。

感染症ですから、抗生物質を使えば熱はすぐに下がり数日で退院になったのですが、話のできなかった父は身振りで退院したくないと言いました。

なくなる時は肺炎でしたが、その時にも入院させたくなかったようで、遠くに住んでいた私のところに母が電話をかけてきて駆けつけた時には病院に入っていましたが、私が連れて行った母と手を取って喜び、その夜から意識不明になり目覚めることは有りませんでした。

親のいるところにお嫁に来た人はとても大変です。母は身をもって知っているのでいつも義妹を立てていましたが、とても良いお嫁さんの義妹は病気になった人には冷たい人でした。

母のことも、「寝たきりになったらご飯を食べさせるのかしら。」と施設には入れないと言っていた義妹の言葉にあいた口がふさがらない思いをしたことがあります。

言いたいことはたくさんあっても、主介護者でない私が口出しすることでないと思ったのでずっと我慢をしてきましたが、もう何も心配をすることが無いと思う反面、母のことを思うと涙が出てきます。

これからの時代は、もっともっと悲しい最期を迎えなければならない人がたくさんいると思っていますが、自分と結び付けて考えることが出来ないでいます。

何事もその時にならないとわからないからこそ生きていられるのかもしれません。



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