羽田圭介の芥川受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」を読みました。
芥川賞と直木賞が決まった時に、老人介護を書いたという「スクラップ・アンド・ビルド」の方をすぐにでも読みたいと検索しましたが、まだ書籍になっていず、初出の「文学界」は品切れで書籍化するのを待つほかはありませんでした。
「スクラップ・アンド・ビルド」会社を辞めて行政書士資格試験を取るために勉強しながら職探しをしている27歳の健斗が87歳の祖父の介護補助をしながら若者である自分と寝ていることが多くなって日々弱っていく老人を対比させて生きることの意味を掘り下げて考えるというストリーであり、現代社会の暗部を鋭くえぐっていると思いました。
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何かと問題視される大卒離職者と老人介護問題を鋭く見つめている
私は87歳のころに母が老人性うつ病になり、93歳で亡くなるまでの心の動きを見てきたので、この小説はとてもわかる部分とちょっと違うのではないかと思う部分があるのを感じながら読みました。
母は最期まで寝ているということはありませんでしたが、壊れていく肉体と記憶力の中で、「いくつになっても死にたくない。」と言ったことがずしりと私の心に落ちています。
健斗の祖父より手がかかりどうしようもなく壊れていた母の言葉は本心だと思いますし、健斗の祖父が「こんなにみんなに迷惑をかけて、じいちゃんはもう死んだ方が良か」というようなことも、母は「もう死んだ方が良いと思うが、死ぬこともできない。」と言うのを聞いて、人間はどんなに肉体や精神が壊れても死にたくないのだと思ったものでした。
私が看たのは、母であり、健斗が看ていたのは、祖父なので感じかたはかなり違っていると思いますが、共通するような思いをいつも感じながら母を看ていました。
介護老人といっても一人一人異なるわけですから思うこと、いうことは違っているのあたり前ですが、「死にたがっている言葉も、ほかの言葉も同じでたいした意味がないんじゃない?」と亜美に言わせていることから、言っていることと思っていることのギャップは分かった上のことなのでしょう。
天井と壁だけを見て寝ている祖父の生き方が理解できないままに、安楽死を考えたりしながらも介護を続けている若者の健斗は自分の未来を見ているのかもしれません。
私はショートステイも、デイサービスも特老にも行ったことがありますが、そこにきている介護老人はそれまで生きてきた人生も様々なのでしょうが、大きなテーブルを囲んで黙って座っている人の多いことにやりきれない悲哀さと異様さを感じ、自分のそう遠くはない未来を否応なく見せられている気持になりました。
デイサービスは介護者の息抜きになるためにお願いするところですから、このようなところがない限り介護者は体も心も参ってしまうことでしょう。
そのような気持ちを代弁している下記のような言葉は何気なく書いていますが、介護者の代弁のように読みました。
たった3年祖父と同居しただけででも今のような状況であるのだから、祖父がこの先5年も10年も生き続ければその間に母は祖父を絞め殺しかねないし特別養護老人ホームどこも順番待ちだ。
特老以外の民間施設に入居させる金などない。
しかし、この本の主題は青年と老人を対比させながら、老いていくことをリアルに描いて生きることの意味を考えさせてくれていることに意義があるのでしょう。
若者である健斗もいつかは祖父のようになることを、自分に置き換えて生き様を見ているのだろうと思いました。
若者も介護老人もその時代の波に抗いながら生きている
人間は生まれた時から死をはらんでいるから、若者である健斗も母も介護老人となった祖父もそれぞれの生きにくさを抱えて生きているのですが、介護老人となった祖父に対して生きることの価値観を深く見つめて描いていることに感慨を深くしました。
それぞれの立場で思っていることはそのほかの人にはわかり難く、そのわかりにくい環境の中で分からないまま家族という役割を続けているのが、家族というものなのかもしれません。
そのわかりにくい三世代の家族という身近な人間にメスを入れて複雑な思いを巧みに描いているのがこの作品の良さだと思いました。
そして、今後増えていく老人介護について考えざるを得ませんでした。