『花のれん』は山崎豊子の直木賞受賞作で、吉本興業の創業者の吉本セイがモデルと言われています。
実家は老舗昆布屋の小倉屋山本で、現在も営業を続けていますが、そのような大阪の商家で生まれ育った山崎豊子が、生家の昆布屋をモデルに書いた『暖簾』により作家活動に入ったようです。
毎日新聞の記者でしたが、『花のれん』が直木賞を受賞したのを機に作家生活に入り社会派作家として、大きなテーマに取り組んだ作品はたくさんの方に読まれ、映画化やテレビ化され人々に感動を与えました。
参考にした資料を脚色せずに作品に書いたために、何度も盗作として訴えられたことがあるようです。
その分作品は現実味を帯びてスケールが大きくなったのではないかと、私は数冊の小説を読んで感じたものです。
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『花のれん』のあらすじ|川島屋呉服店没後多加が小さな寄席小屋を知恵と才覚で大きくしていく物語
『花のれん』の主人公の河島多加は河島屋呉服店の吉太に、見染められて息子の吉三郎のもとに嫁ぎ呉服の商いを教えられてかいがいしく働いていたが、3年目に舅の吉太が亡くなってしまいました。
夫で長男の吉三郎は商売の才覚はなくお店はあっという間に傾いてしまい、その店をたたんだお金で、ぼろ寄席小屋を買い、吉三郎の好きな芸や寄席で立ちなおすことを考えたのです。
吉三郎が懇意にしている芸人のがま口が寄席小屋を探してきて、一緒に仕事をすることになりますが、最初は熱を入れていた吉三郎は商売には向いていないようで、なかなか仕事に身が入らなくなります。
多加がかいがいしく働いて、小屋を増やしていったころにはお座敷遊びをするようになり、妾まで囲って妾宅で亡くなってしまいます。
悔しさからますます商売に精を出す多加はそのかいあっていくつもの小屋を買い増し、通天閣を挟んだ寄席二つと通天閣までわがものとし、多加の寄席小屋は大阪一になって、一流の落語家や芸人が舞台を務めるようになり、通の客は桟敷に通うようになって押しも押されもしない多数の寄席小屋を持つまでになっていました。
それまでの多加の気配りと才覚は小気味よいほどで、難波商人の心意気が伝わってくると共に、現在にも通じる生き方を教えられたように思います。
何事も根回しが大切だと聞きますが、ここまでの根回しをして繁盛させていく多加の心意気は痛快と感じるばかりです。
成功する人と成功できない人の差がここにははっきりと書かれていて、山崎豊子も大阪商人の家に生まれ、育った根性がこのように書き上げたのだろうと思います。
関東大震災、太平洋戦争と世の中は大きな試練の時を迎え、落語家も例外なく戦争に徴兵されるようになり、空襲によって寄席小屋も焼けてしまいまい、多加は芸人の借用書を返しに回りますが、心が折れるようになり、後を託してなくなりました。
この物語の多加が築いた寄席小屋が現在は押しも押されもしない吉本興業となって有名な芸人たちを輩出していることを考えると感無量の思いにかられます。
エンタツ・アチャコ、桂春団治などの芸人も実名で登場して物語に花を添えています。
その時代を知っている人ばかりでなく、戦前の大阪商人の女性のど根性を書いていますが、戦前を知らない私でも、古さを感じることなく読めたのは人間の神髄を突いているからだと思います。
吉本興業の又吉直樹が芥川賞作家になっていることも何かの縁を感じてしまいます。
山崎豊子は2013年9月29日に亡くなっていますが、吉本興業の又吉直樹が芥川賞を受賞したことを知ったら、喜んだだろうと思いました。