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『門』夏目漱石著|親友を裏切りその妻との結婚生活を描く

2016年3月31日

数十年ぶりに夏目漱石の小説を読み始めたが「門」は「こころ」に次ぐ2作目で、読んだ記憶がないので初めて読んだことになるようです。

村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」を書くときに「漱石の門」が頭の中にあったと書いてあるのを読み、読んでみたいと思ったことがきっかけになっています。


本を読むということは一冊の本からその本に繋がる本を読んでみたいという思いに駆られて次々と読む本が決まってくるので、自然に読みたい本が出て読み続けていくというのが私の読み方になっています。

漱石の小説を再度読み始めて感じたことは、私が思っていた明治時代の夫婦のありようとはかなり違っていて、お互いを思いやる心が繊細で、現在の夫婦も見習うべきものが多いことを感じないわけにはいられませんでした。

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親友を裏切ってその妻と結婚したという反社会的な生き方の中に読む深い夫婦愛

夏目漱石の書いた本の中でも『門』はあまり読まれない小説に入るようですが、役所勤めの野中宗助と妻の御米が世間とかかわりを持つことが少ない生活をしていることから小説ははじまります。

読み進むにつれて、親友の安井を裏切ってその妻と結婚した宗助は社会も家族も親戚も友人からの捨てられ、その時通っていた京都帝大も止めざるを得なくなりました。

そのような苦しみの中でも二人はお互いを思いやって睦まじい生活を送っているのは、『こころ』の中の夫婦の愛と同じように見えます。

ひっそりと崖下で暮らす宗助と妻の御米には現在に通じる孤独な生活が垣間見えるようで、明治時代という100年も前に書かれた小説とは思えないものがあります。

ただその当時は姦通罪という法律があり、北原白秋が監獄生活を強いられた時代ですが、罪に問われなかったのは安井と御米が結婚をしていなかったからなのでしょうか。

そのような時代のことですから、野中宗助と妻の御米の罪の意識は強く、何度か妊娠しても流産したり死産だったりすることもその罪故と思っていたようです。

友人もなく暮らしていた野中夫婦ですが、大家の坂井の家を尋ねるようになり、満州に行っていたという安井が坂井の家を訪れることを聞き、いてもたってもいられなくなった宗助は救いを求めるために鎌倉へ向かい参禅することにします。

この時に尋ねて行った鎌倉の寺の「門」が題名になっているのですが、結局は悟ることはできず帰宅することになります。

社会とのつながりが亡くなった後に父が亡くなってある程度の財産があったが、その財産は叔父に任せ弟の小六の養育を頼むが、小六が大学に行く前に叔父が亡くなり大学に行かせることができなくなったと叔母の息子から言われます。

そのような交渉にも消極的になっていた宗助だが、大家の坂井の家で小六を書生としておいてくれることになり、その間に宗助がお金を貯め、叔母の家の息子にもお金を出してもらうことにして小六の大学進学を工面することにします。

題名となった肝心な「門」の部分の記述が今一つ物足りないという感じはしましたが、隠れるように暮らしている夫婦の生活を書いた部分がかなり深みがあり、その孤独感が現在の孤独感と通ずるものがあると感じました。

村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」の夫婦を書いた時に夏目漱石の「門」を意識したと言っているようにどこか共通点のようなものを感じました。

御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのという心は微塵も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟に乏しい或物が潜んでいるような鈍い訴たえがあった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦ず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙あげて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴たった二点の油のようなものであった。水を弾いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。

彼らはこの抱合の中に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具えていた。そうしてその倦怠の慵い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞ます事はあった。けれども簓で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間に疎いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。

彼らは人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から明日へと繋つないで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯さかのぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪ひざまずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らは鞭れつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒す甘い蜜の着いている事を覚ったのである。

上記の文章が、安井を裏切り安井の妻と結婚した野中宗助との御米の生活でした。

この文章を読んだ時に社会から見放された夫婦がこのように美しく生きうるのだという思いを深くする一方、現在の夫婦にこれほど深い愛情を持ち続けている人がどのくらいいるのだろうかと思いました。

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