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広告 政治・社会問題

子供の貧困ー貧しさを教育格差に繋げないために

著作者 mhaller1979

現在子どもの貧困は6人に1人になっていると言われ、それが教育の格差につながっていると言われています。

子供が選んだわけでない貧困の子供たちをどのように社会や政治が関わっていけば良いのでしょうか。

そのような思いを抱いていたら、もっと大変な子供たちがいることが明らかになっているようです。

それは消えた子供たちの存在で、親の貧困が虐待を生み出し、親の事情で、車上生活を余儀なくされている子供たちのことを放映していたテレビを見て愕然としてしまいました。

親から虐待を受けて家に閉じ込められたり、経済的理由で自分の意思に反して義務教育さえ受けられなかったり。

社会とのつながりを失っていた子どもがこの10年で少なくとも1000人余りに上ることが、NHKが行ったアンケート調査で分かりました。

長い年月、親からの虐待で救い出された子供数人がHHKの取材に応じていたのを見て、涙が流れてしまいました。

助けられた子供たちが言っていたことは、一生懸命気づいてほしいと願っていたのに周囲の人が無関心だったということです。

日本が経済成長に乗る前の私が子供だった頃も子どもの貧困はありました。

そのテレビを見ながら、私が少学生だった頃のことを思い出しました。

 

親が無関心だったか、詳しいことは子供だった私にはわかりませんでしたが、先生の対応の仕方がとても記憶に残っています。

今と時代の差は瞭然とあって先生が訪ねていっても戸を開けてくれないというような家に住んでいなかったことは確かですからその点は比べようもない時代のことですが、同じクラスに学校にこない生徒が2人いました。

受け持ちの先生はかなり頻繁に家に訪ねて学校に来るようにと親にも子供にも話したようです。

1人は4年生までの分校から5年生で本校にきた人ですが、その家は4キロ以上もあったと思います。

ほとんどの家に車のない時代で、もちろん先生も車を持っていませんでしたし、自転車にも乗れませんでした。

自転車に乗れない方はあまり多くありませんでしたが、その先生は自転車に乗れないのでその子の家に行くには歩いていくのは大変だったのでしょう。

赤い自転車を購入して、一生懸命練習していた姿が目に浮かんで、その時の先生の熱い気持ちが伝わってきました。

執念で覚えた自転車で何度も遠い教え子の家まで、学校に来るようにと説得に行った姿が昨日のことのように思い出しました。

その当時も貧しい子供はたくさんいましたし、勉強のことなど関心のない親のほうが多かった時代でしたが、基本的な計算や読み書きのできない子供は放課後も残して勉強を教えていた姿も思い出しました。

50人くらいの受け持ちの子供をきめ細かく指導していた姿は、本当の教育者だと思えるものがありました。

私が通っていた小学校は学年で3クラスくらいあったので、先生もたくさんいたと思いますが、ほかの先生がそれほど熱心だったかどうかは覚えていまないので、すべての先生が同じではなかったと思っています。

見えにくいところで広がっている子供の貧困と親の虐待

横並びの今の時代は人と違ったことをすること自体も問題となり、先生も生徒も、そして福祉事務所の方も問題提起を受けても深入りを避けていることが多いのだと私はテレビを見て感じました。

弱い子供たちの目に見えない声を聴こうともしない大人たちと、気づいて欲しかったと言っていた子供の姿のギャップにやるせない気持ちになりました。

社会との接点を欠いたまま長い年月を過ごしてきた子供たちはその空白を埋めることの難しさを感じているようでした。

このように悩んでいる子供たちの影で、未だに行方のわからない多くの子供たちがいるということを社会はきちんと認識しなければならないのだろうと思いました。

貧しさを教育格差に繋げないために

6人に1人の子供が貧困だと言われても周りを見る限り感じることができないでいますが、親の貧しさが子供世代の貧しさにつながっていくのは日本だけでなく世界の問題のようです

今年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女、マララ・ユスフザイさんは子供たちに教育をと訴え続けていますが、日本では数が少ないゆえに見えないところでそのような波が広がっているのではないかと思えてなりません。

大学に行けば貧しさから解放されるという考え方は私には馴染めないものがあるのですが、金銭的なことを考えれば国立大学の学費が58万5千800円ということなのでかなり無理をして大学に行っている家庭が多いのではないかと推測されます。

2012年に奨学金を利用した人が52.5%という数字もあるようなので、返済に困ている方が多いということも視野に入れなければなりません。

よほど給料の高い企業に入らなければ、奨学金の返済も重みになってしまい、大学を出たけれど裕福にはなれないという状況を生み出しているのではないでしょうか。

雇用形態の変化と賃金の格差が大きくなっている現在、奨学金制度の見直しを行わなければ、大学に行っても貧困から抜け出せないという悪循環を繰り返すことにもつながりかねないようです。

私は大学を出て、ある程度の地位を築きあげた人たちが企業の人員整理の波に乗って苦労した時代も見てきていますので、大学に行けば安泰だというような気持ちは持っていませんし、有名大学を卒業して有名企業に就職しても仕事ができないという話もたくさん聞いていますので、大学だけが全てだとは思っていません。

しかし、親の貧困が選んだわけでもない子供にもつながるという悪循環を断つ為の努力は、政治、社会がになっていかなければならないだろうと思っています。

学校教育とは勉強ばかり教えるところではなく、親が親身にみて上げられないような子供たちにも夢を与えることのできるものでなければならないと思っています。

私は戦後の価値観が変わってしまい、親も大人も何がよくて何が悪いのかわからなくなった時代に、本を読む大切さ、女であるからと言って男の言いなりになる必要はなく、自立して生きていく大切さを先生が教えてくれたように思います。

親が出来ない分は社会、行政の力で生きていけるような智慧を授けられる世の中にならない限りは心の豊かな子供は育たないと思います。

数十年前まではどろんこで遊んでいた子供たちの姿は見えず、お金で買う体験学習という塾も人気がある時代になっていることを考えると、現在の子供の育て方はとても難しいものがありそうです。

子供の多様性が求められるようになって、体験学習が人気となりそれらに参加できた裕福な子供たちは裕福度が高くなっているという統計もあるようです。

介護問題と子供の問題が大きくなっている社会保障制度ですが、それらの問題を繋げて考えることはできないだろうかと思うこともあります。

学校というものの本質を見つめ直し、大学に行けば豊かな生活が出来るという時代ではなくなっていると思い直すことも大切ではないでしょうか。

失敗をくりかえしただけ人は強くなれると信じている私は、学びたいと思った時にいつでも学び治せる社会であってほしいと願っています。


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