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『マチネの終わりに』平野啓一郎著ー音楽(人生は)は過去に向かて広がっていく

『マチネの終わりに』は2015年3月から2016年1月まで毎日新聞に連載された小説であり、天才クラシックギタリストの蒔野聡史が「デビュー20周年記念」としてのコンサートの最終日、2006年の秋に小峰洋子との出会いから始まります。

小峰洋子はフセイン政権が終わった後の混乱のイラクでジャーナリストとして働いています。蒔野聡史38歳、小峰洋子40歳の決定的な出会いは二人の意思とは異なったところで誤解が生じ、お互いが惹かれながらも別々の生活を歩むことになってしまいます。

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『マチネの終わりに』のあらすじと感想

「マチネ」とは、昼の演奏会のことで、最終章で蒔野がアメリカの演奏会の後5年半ぶりに洋子との感動的な出会いが題名になっています。

『マチネの終わりに』は9章からなっていて、2006年の秋の出会いから始まります。各章ごとにおよその年月が書かれているのでそれを追う形であらすじを書いてみたいと思います。

第一章 出会いの長い夜

2006年秋 サントリーホールにて

レコード会社の是永慶子と一緒に蒔野のコンサートに来ていた小峰洋子は打ち上げに誘われて、そこで蒔野とすっかり意気投合します。洋子がオックスフォード大学、コロンビア大学院出てイラクでジャーナリストとして働いていること、母親は長崎出身であるため、日本語、フランス語、英語、ドイツ語ラテン語などを話せることがわかります。

小峰洋子は蒔野が喜んで弾く「幸福の硬貨」のクロアチア人のイェルコ・ソリッチの監督の娘であること、蒔野が、パリ国際ギターコンクールで優勝した直後のコンサートを聴きに行き、父の映画のテーマ曲を2つ年下の日本の高校生がこんなに立派に演奏するなって許せないと思ったことなどを話し、初めての出会いから旧知の知人のように心を通わせます。

「人は変えられるのは未来だけだと思いこんでいるが、実際は、未来は常に過去を変えらるともいえるし、変わってしまうとも言える。」というようなことを蒔野が言います。「花を知らずに眺めた蕾は、花を知ってから振り返った記憶の中で同じものでない。」というのを洋子は頷きながら聞いています。

そして、音楽とはそんなものだと蒔野は言い、「最初に提示された主題の行方を最後まで見届けたとき、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか?。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャンがあったのか。」気づくといいます。

多分人間はそのように過去と未来の中で生きているのでしょう。この物語も、過去と未来の中で、今という時間を生きている人間をとらえることで世界の現状や過去の様々な戦争などを私たちに問いかけているのだと思います。

長崎の原爆投下、父と母と洋子を離れ離れにした民族紛争、イラク戦争後の混乱など世界情勢を織り込みながらも、二人の純粋な大人の愛が流れていきます。

蒔野は話しが通じあうという純粋な喜びで、店が閉まるまで話し、二人は連絡を取り合うという約束をして関係者と一緒に店を出て洋子をタクシーに乗せました。

第二章 静寂と喧噪

2007年2月

蒔野はスランプに陥っていました。それは「デビュー20周年記念」の時から萌していたのです。

「きているという歓喜以上に音楽に何が必要だろうか?。今やもう本来の棲み処の中である日常の喧噪の中で、息も絶え絶えのありさまである。」と彼は思っていました。

ネットのニュースで、洋子が働いているRFP通信社の支局が7階に入っているホテルの1階のロビーで自爆テロが起き30人以上が死傷したという記事を読んで心配して何度かメールを入れていたが返信がないので蒔野は心配していました。

イラクの混乱の中で取材している洋子からのメールに、「父から《ヴェニス死す》症候群だといわれました。それは父の造語で『中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気がさして、本来の自分に立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』だそうです。まさに私です。」というメールを思い出していました。

このメールは蒔野のここ数日の思索と行動に影響を及ぼしていました。演奏会のCDを聞いてみて、けちのつけようのない演奏だったと思うが、未来がないことが決定的だという思いからです。芽吹こうとしているみずみずしさがないことに不満を感じていたのです。

第三章 《ヴェニスに死す》症候群

2007年2月21日

洋子はロビーで取材をしていて、エレベーターに乗ったとたんに爆発音を聞いてエレベーターに閉じ込められてしまいました。たった一人で暗闇の中に。

支局長のフィリップはアメリカ軍の侵攻が始まった2003から出入りしている筋金入りでフセインの銅像が倒される場面にも立ち会い、その裏話も語ったというほどのジャーナリストです。

6週間勤務で、2週間の休暇という制度も彼がつくったものだといいます。すべての取材を現地採用のスタッフに任せているところもあるが、RFP通信社はアメリカ軍の厳重な警護の元バグダッド市内の取材も行っていました。

洋子はPTSDの兆候があるからと、カウンセラーから取材のストップがかかていてフランスに戻ることになっていました。

洋子は毎日蒔野を思い詰めて、レコードを聴いていて慰められていたので、野からの3通のメールはとてもうれしかったが、それ以上のことを書いてしまいそうで返事を書けないでいました。
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弟四章 再開

3度のメールの返事が来なかったために諦めなければならないと思っていた矢先、洋子からの長い長いバグダッドでの出来事のメールが届き、すぐに返事を書きお互いが愛し合ていることを確かめパリに数日いることにして2日会う約束をしたのです。

音楽家として難しい時期に差し掛かっていると感じていたが《この素晴らしき世界》のレコーディングをキャンセルしたという噂はどこからともなく広まっていて、同業者と顔を合わせるたびに尋ねられ、恩師でありここまで彼を育ててくれた祖父江誠一にも尋ねられました。

今でも新作が出るとCDを送るがかってのような昂揚した称賛はなりを潜めていることから、《この素晴らしき世界》のキャンセルを彼の演奏家としての問題と関係づけてみていたのは祖父江だけのようでした。

蒔野は6月3日にマドリードのフェスティバルに招待されており、その後、かって学んだパリの音楽学校でマスタークラブを受け持つことになっていてその最終日には、校内のホールで学生らを含めた演奏会がも催される予定で、それに洋子も招待していました。

そのメールには「うれしい。」という弾むような返事が届きました。洋子も自分を愛しているかもしれない。そして、自分が彼女の愛に値する人間かどうか考えました。

当初は乗り継ぎだけの予定だったが往路もパリに数日滞在することにしました。木下事務所の三谷は往路もパリに滞在したといわれてすぐに洋子に会うのだと察しました。

いつしか蒔野に惹かれていたアシスタントの三谷はむくわれることのない火を、必死で消そうとしている最中でした。

機内では、洋子の父であるイェルコ・ソリッチ監督の《ダルマチアの朝日》の映画DVDをパソコンで見て感動しとてつもない天才だと思いました。

蒔野は午後の遅い時間にパリに到着して、翌日練習場所を貸してくれるホテルにチェックインして夜の8時に洋子が予約したレストランに向かいます。

たわいないことから話を始めたが、「もし洋子が世界のどこかで死んだと聞いたら俺も死ぬよ。」と洋子は言われて驚いてしまい、「私もうじき結婚するのよ。」というとそれを止めに来たといわれました。

洋子は妊娠しえいるかもしれないという思いで揺れていて、マドリードから戻るまで返事を待ってくれるように頼みその夜は別れます。

第五章 洋子の決断

マドリードでの演奏会は思うような出来でなく、洋子のことを考えることが多くなったが、世界の主要なコンクールすべて優勝しているポーランドギタリストの素晴らしい演奏に驚嘆し、不穏な胸騒ぎを覚えていました。

本来ならば、彼自身が取り組み、新しい達成として未来に示すべきの課題は、この青年によって克服されていました。ハンサムで、背が高く、スター性も充分持ち合わせていました。

マドリードからパリに戻った2007年6月10日のコンサートは最後の曲まで疵ひとつない演奏でした。蒔野が積み重ねてきた集大成であり、その先はないという行き止まりのようなものでした。

蒔野はアンコール前の締めくくりとして《大聖堂》を演奏した。その途中、洋子の席が空いたままになっているのに気がかりになったが、演奏家としての話とは別の話だと割り切っていたつもりだったが、音楽が、彼の手からのがれ去ってしまいました。突然のことに、彼も観客も戸惑いざわめいたが、彼は何も言わずに一礼して舞台を降りてしまいました。

楽屋に戻った蒔野の携帯には洋子からの着信が何度かあり、急にいけなく会ってしまったことを謝り、話がしたいから今晩自宅にきてほしいとメッセージが残されていました。

蒔野は、失敗に終わったコンサートの後、ホテルに戻り2時間ほど仮眠をとりギターケースを担いでタクシーで洋子のアパルトマンにに着いたのは7時過ぎでした。

洋子はその日の朝までコンサートに行くつもりでいたのだが、イラクでアシスタントをしていたジャリーラが過激派から脅迫を受けていて、スウェーデンに亡命しようとして経由地で捕まりフランスで赤十字の庇護下にあるということでした。

洋子がRFP通信社の記者だということも功を奏してフランスの滞在許可がおり、洋子のアパルトマンに一緒にいることになったようです。その夜は蒔野がギターを演奏し、3人でとても楽しい夜を過ごすことになりました。

ジャリーラが寝た後に、洋子は好きな人ができ、その人と一緒に生きていきたいから婚約を解消させてほしいと伝えたといいます。それを聞いて蒔野は息をのみました。

その夜はジャリーラの苦しそうな呻吟のために長い口づけよりいくらか先に進みかけただけで朝を迎えました。

第六章 消失点

帰国後、蒔野は洋子と頻繁に連絡を取り、洋子の父の映画のこと、世界のこと、何よりお互いのことを語り合っていました。

洋子の母は長崎で、記憶もあいまいなころに被爆して、逃げ出したって負い目で、人生を楽しみ切れないところと、後遺症の不安から楽しまなっきゃて焦る気持ちとどちらもあったと父が言っていたといいます。

そのころ、蒔野は音楽家としてのスランプに陥っていることの不遇を呪いました。それは、他の何かによって決して代替されぬものであり、埋め合わせの利かぬものでした。

洋子もリチャードとの婚約解消は先が見えない状態で、最初の動揺が去った後は洋子の「浮気」を許すとまで言い出していました。

洋子は蒔野と、当たり前のような結婚を前提にした話をしたがプロポーズは受けていなかし、スカイプの会話中にほのめかされたことがあったが、「少し味気なすぎない。」といったことを洋子は後悔していました。

洋子はイラクでの自爆テロ時の経験からPTSDになり苦しんでいました。

レコード会社の是永からメールが来て、スカイプで蒔野がスランプで苦しんでいることなど、マネージャーの三谷が、支えていることを聞いて三谷の人生観がしばらく頭からはなれませんでした。

蒔野は洋子との休暇の計画を話し合い、最初の2日間は東京で過ごし、そのあと一緒に彼女の実家のある長崎に訪れることにしていました。

蒔野は相変わらず不調だったが、技術的には高度なだけに、あまり目立たなかったが、ほんの数カ月で、二度も楽譜が飛んでしまうというのは異常でした。

洋子との新しい生活に寄せる期待は以前より大きくなっていたので、パソコン越しに向かい合うと、彼は自然なほど笑顔になっていました。

レコード会社ともいろいろあったが、野田という担当者になり、《この素晴らしき世界》をジャリーラに捧げるというアイデアを思いついて蒔野はやる気を取り戻していました。

洋子は8月29日午後4時半に成田空港に着く予定で、蒔野は空港まで迎えに行く予定でしたが、洋子からの電話で飛行機が3時間遅れで、到着時間が見通せないので、できれば直接蒔野の家に向かいたいとと告げられました。

しかし、蒔野の自宅に祖父江誠一の娘から、父が脳出血で倒れたという電話が入り、タクシーを拾って病院の場所を告げるとその辺の地理はわからないというのでおりて後から来たタクシーに乗ったが、携帯電話がないことに気が付きました。

祖父江は検査を終え、手術が始まったばかりらしく、3時間ほどかかるといわれ洋子に連絡を入れようと思ったが、電話番号もわからなかったために三谷に連絡しました。

三谷は小金井タクシーに携帯電話があることを教えられ、暗証番号も教えてもらっていたので本人であることが確認できましたが、そこに洋子からの音信履歴を目にすることになりました。

同じ新宿駅で待っているというメールを見て、同じ場所にいるのだとわかった三谷は洋子の姿を認め、洋子の美しさに圧倒され、妬みの思いを抑えられなくなり、「もう会うことができません。」というようなメールを送ってしまいます。

電車を降りて送信した履歴を消すつもりでいたが、誤って水たまりの中に落としてしまいました。すべての履歴が消えてしまっているのを知った蒔野は、何か連絡する方法がないかと考えて三谷に、「小峰洋子さんの連絡先知らない。」というとメールアドレスなら知っています。」というので、「今夜は祖父江が倒れた事情を説明してホテルを探すか、ここに来てもらったら部屋の鍵を渡す書いて。」送ってくれるように頼みました。

しかし三谷は送るふりをして削除してしまいました。

三谷が送ったメールを見た洋子は飛行機の中でもPTSDの発作は心配だったが、ホテルにどのようにして着いたかもわからない状態でした。

三谷が送ったメールを知らない蒔野と洋子のメールはかみ合わないまま、洋子は長崎にと行ってしまい、1度も会うことがなく、2週間後にリチャードと結婚したというメールを受け取ったのです。

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第七章 愛という曲芸

2009年の夏 台北

蒔野は新たに審査員を務めることになった、台北国際ギター・コンクールのために台北にいました。祖父江が審査員を務める予定だた新設のコンクールだったがまだリハビリ中のために蒔野が務めることになり、そこで旧知のギタリスト武知文昭と会い、デュオのコンサートをする約束をしました。

祖父江の孫の手足口病がうつって手の爪まで剥け、生えかわったばかりで、ギターにも触っていなかったがやっと治り、爪は手入れされているのを武知は見ました。

蒔野も未練がましく、洋子との別れを忘れられないでいたが、洋子もニューヨークで、自分とは違った経済界の自慢話にうんざりしながら、株価の上昇を祝う会に来ていました。

洋子の父は寡黙であったためか本当に自慢しない人だったことから違和感を感じてしまうのでした。イラクで同僚だったフィリップはどんな大金を積んでも手に入れられない貴重なものだが、それを鼻にかけていると感じていたことは一度もありませんでした。

そんなことを考えながら蒔野聡史のことを思い出していました。

2年前の夏、蒔野にメールで別れを告げられ、長崎の実家で母と共に過ごしパリに戻った洋子は空港で、リチャードとその姉の出迎えを受けたのです。連絡したのは洋子の母で、娘が心配なので側にいてほしいと頼んだようでした。

あの時、クレアに抱きしめられ、その抱擁の時間が長かったために自分の足で立っているのが精いっぱいで、リチャードとの抱擁も後には引き返せない長さとなってしまったのです。

洋子のPTSDが最も酷い症状だったのもあの時期だったのす。西新宿のホテルのエレベーターで経験したような強烈なフラッシュバックは徐々に和らいでいったが自然に治癒したとはいえず、リチャードの献身には感謝していました。

経済学者であるリチャードの理論にはついていけず疑問を抱くようになっていきます。

そのような中、ケンが生まれますが、生まれたのはリーマン・ブラザーズが破綻した翌月でした。リチャードは出産には立ちあえなかったが、まだ名前もない赤ん坊と対面した時には涙を浮かべて打ちのめされたような面持ちで立ち尽くしていました。

洋子はリチャードが家族に非常に愛されて育ったということを彼のケンに対する態度を見ていて、つくづく思いました。

それでも、リチャードの新自由主義の経済理論を理解しかねているのでした。リチャードはそんな洋子は冷たいといいます。

年があげた2月にリチャードは思い詰めた表情で、ヘレンとの関係を洋子に告白して、離婚してほしいと言いました。

蒔野聡史と武知文昭のデュオのコンサートは2010年春の埼玉を皮切りに夏まで全国八か所で催される予定だったので、施設に入った祖父江に報告し毎日10時間前後の練習をして思った以上に弾くことができることを実感していました。

洋子が読んでいた本を《イプノス》の中に「明晰さとは、太陽に最も近い傷だ」と書いてある謎めいた1文に心を奪われました。その言葉は、閃光のように彼を貫き、いつまでも強い印象を残していました。

蒔野はそれを、詩文の演奏に対する、最も鋭利な批判のように感じ、祖父江の「もっと自由でいいのですよ。」という一言と呼応し会っているように感じながらも、雲をつかむような言葉を考えていました。

武知とのデュオのコンサートが近づくと眠れない日が増え四階のリビングで映画を見ながら寝る悪い癖が付き、早苗が夫にそっとタオルケットをかけてやりました。

早苗はあの日、洋子に偽りのメールを送った瞬間から、その卑しい行為が蒔野にいつ発覚するかとおびえて過ごしていたが、露見しないまま、彼女の思惑通りに変えてしまい、その悪い奇跡のような幸福に薄気味悪さを感じていました。

蒔野の身の回りの世話を焼きたがるというのではなく、祖父江に対して献身的であったこと、彼の不調で彼女にあまりに多くの負担をさせてしまったことが彼女を信頼させ、身近な存在とさせていったようです。

早苗がひたすら待つということに徹していた半年を経て、いま彼女に抱いている好感にそのままそのまま愛と名付けるべきだと考えました。

蒔野から愛を打ち明けられ、結婚を願われた早苗はたとえようもなく、自分がこんなに幸福に恵まれたことが信じられなかったが、自己弁護へと立ち戻土らざるを得ませんでした。

一生涯、完全に無垢のまま生き続けられる人間などこの世にいるはずはないという、誰もが罪を犯すならそれは重いか軽いかでしかないという減点法的な発想が、早苗の精神的な拠り処になりました。

そして、早苗は妊娠していることを蒔野に伝えるのです。

第八章 真相

洋子とリチャードの離婚をめぐる話し合いは、アメリカンの通例に従って弁護士を立てて裁判所を挟んで行われました。

リチャードは財産分与に関しては譲歩的だったが、ケンの監護権については公平であることをこだわりを見せ、共同親権性が採られるアメリカでは、養育時間をどのように割り振るかという条件面での話し合いがもたれ、年間を通じ丁度半分ずつ面倒を見ることに決着がつきました。

洋子は価値観が異なる家を行き来して1歳半のケンがどのように育つのだろうと心配だったが仕方のないことでした。

離婚が成立し、一人暮らしを始めていたばかりのころ、イラクに残っていたジャリーラの両親が殺害されたと記者時代の同僚のフィリップから連絡をもらいました。ジャリーラはフランスに呼び寄せたいと思っていたが手遅れになってしまったということでした。

ジャリーラは打ちひしがれているので、時間のある時にでも声をかけてほしいとメールに書いてあったので、スカイプで、その後のイラクのことを話し暗い気持ちになりました。

次の日ジャリーラと長い時間スカイプ話したが、なぜ自分だけが生きのこってしまったのかとその意味を考えって苦しんでいました。

洋子はジャリーラにいろいろとプレゼントをしようと思い、アマゾンの蒔野のページを開いて、2007年以来CDを1枚も出していないこと知りました。洋子はサントリーホールで聞いた《アランフェス協奏曲》と《この素晴らしき世界》をジャリーラにもプレゼントするつもりで2枚づつ購入しました。

届いた《この素晴らしき世界》のCD見て息をのみまし。そこには───このアルバムを、親愛なるイラク人の友人ジャリーラと、その心優しい、美しい友人に捧げます。───と書いてありました。

洋子は2010年の夏季休暇はケンを連れて長崎の膝下で過ごし、最後の2泊は東京で過ごすことにしていました。洋子は代々木の白寿ホールで開催される蒔野のデュオのツアーの記事を目にして以来、行くべきかどうか迷っていました。

チケットは完売で当日券をならばなければならなかったが、空席が2席残っていて購入することができたとき、「蒔野です」と妊婦に声をかけられました。

蒔野の妻に「どうしても話したいことがある」と言われたが、彼女はマルタとマリアの話をはじめて、「今日のコンサート、洋子さんには来ないでほしいんです。」言われました。

続けて「洋子さんには、何にも悪いことはないのです。洋子さんととの関係が始まってから、蒔野は自分の音楽を見失ったのです。」と、その言葉を聞いてメールを書いたのが三谷早苗であることを洋子は悟りました。

彼女は洋子に見つめられてあの日何があったのかしゃべり始め、もう「蒔野とは関わらないでください。」話していました。

「それで、・・・・あなたは今、幸せなの?」と聞くと、早苗は「すごく幸せです。」と言います。洋子は「あなたの幸せを大切にしなさい。」皮肉な響きのない、親見とさえかじられるような穏やかな口調で言うとその店を後にしました。

母とケンが戻っていないホテルの部屋に戻ると誰はばかりなく号泣しました。

ツアーが始まったころ、武知は彼らのデュオの酷評を目にし気に病んでいたが、グローブの野田からジュピターから来た岡島さんがブログに書いていることを教えられました。野田は岡島に用事があって部屋に行ったときにその画面が開かれているのをみて、憤慨したところ、岡島は翌日会社に辞表を出したということでした。

ツアーは回を重ねるごとに調子を上げていき、最終日には、蒔野はようやく、自分は危機を凌ぎ切ったのだという自信を抱くことができました。

武知はツアーの後、死を選んだようでした。事故ということだったが蒔野には何となくわかりました。是永から連絡があり、会った時に是永もさっしているようだったが、あまり触れたくなかったので洋子の話になり、リチャードと結婚する前にPTSDで苦しんでいて、リチャードの支えがなかったらもっと悪化したと言っていました。というのを聞き、そのころ彼は毎日のように洋子とスカイプで話していたはずだったと思い起こしました。

洋子との別れから3年以上が過ぎていたが、早苗から打ち明けたときには、彼自身が、真相のかなりかなり近いところまで迫っていましたが、祖父江が倒れた時に、送ったメールのことを妻に告げられて、蒔野は茫然となりました。その取り返しのつかない過ちが胸を締め付け、洋子はどんなに傷ついただろうと思いました。

そして、その後の早苗の彼に対する献身も納得ができました。そして2年半という時間、不甲斐ない自分の傍で黙々と働き続けていたその姿にも同情的になりました。

「来月出産というこの時期になれば、俺がもう、きみと別れることはないと思ったんじゃないのか?」早苗は首を振ったが言葉はありませんでした。

長い沈黙の後、「せめて言わずに耐え続けてくれれば、良かったんじゃないか?」という言葉に早苗は一縷の望みをつないで「ごめんなさい。」と謝りました。

10月14日2800グラムの女の子が生まれ、早苗は「優希」と名付けました。

洋子はニューヨークに戻った後「国際人権監視団体」採用試験を受け「難民局のあるジュネーブ支部に住むすることになったが、2週間に一度はニューヨークに戻っり、本部で仕事をこなすという勤務状態だったため、月の前半と後半とでケンを預かるという新しい提案にもリチャードは最終的に理解を示してくれました。

洋子は早苗のしたことは軽蔑していて、蒔野には誤解を解きたかったが、自分自身が父とも息子とも一緒に暮らせなかったことから、蒔野にはあの子の父親として幸せに生きてもらうことこそ願うべきではないかと思うようになっていました。

洋子はジュネーブに立つ前にロスアンゼルスに住む父のイェルコ・ソリッチを尋ねました。

「事実は、事実としてある。情報の真相を確かめるというのは、今の世界では最も価値のある仕事だろう。報道の虚偽や偏向は、国の運命も、人間の運命も変えてしまう。」このソリッチの言葉はとても意味があると思いました。

そして《グレアチアの朝日》の後、次に《幸福の硬貨》を撮影するまでの9年間、何をしていたか、母も教えてくれないことを聞きました。

父は脅迫されていたといいました。お母さんと話し合った結果、彼女は洋子をこれ以上、危険にさらすわけには行かないとといったので、分かれ、私の経歴からも、完全にお前たちの記録を抹消したと。

第九章 マチネの終わりに

2011年

蒔野は早苗の告白以後相反する感情に苦しんでいました。出産の感動は、蒔野に早苗への否定的な感情を一旦忘れさせ、生まれてきた子供のか弱い健康に強く心を打たれました。

蒔野は子供にミルクを飲ませ、洋子と結ばれていたらこの世に存在しなかっただろうと思い、この子には、両親が真に愛し合って生まれてきたのだと安心して信じさせたいと思いました。

蒔野の家族に対する思いは、東日本大震災を経て一層強いものとなりました。早苗の両親の懇願もあって、二人をしばらく福岡の実家に帰省させることにして、迷っていたコンサートを中止しないことにしました。

コンサートの当日券売り場は行列ができるほどの盛況でした。そして楽屋に籠ってしばらく一人にさせてもらっった時、バッハに取り組むなら今だろうと考えました。

ドイツの人口を激減させたあの凄惨な戦争後に生まれた必然性を彼女は「やっぱり、三十年戦争の後の音楽なんだって、すごく感じた。」と言っていたのを改めて思い返していました。

洋子は新しい仕事に充実感を感じていました。そんな折に日本で起きた東日本大震災をジュネーブで知り、日本語の報道に偏りを感じて匿名でブログを立ち上げ有益と思われるものを選んで翻訳していきました。

蒔野は新しい《無伴奏チェロ組曲全集》は2012年の2月初めに発売され《レコード芸術》の〈特選盤〉となっただけでなく、フランスで最も権威のあるクラシック音楽専門誌《ディアパゾン》の金賞を受賞し話題となっていました。

蒔野聡史のニューヨークでのリサイタルは2012年5月に催うされることになりました。洋子への思いを断ち切ろうとしても断ち切れないままコンサート・ホールの舞台に立つことになるのでしたが。

そのコンサートの後ろの席で洋子は、かっての一分の隙もない、あまりにも完璧な世界とも違って音楽そのものに少し自由に踊らさせて、それを見守りつつ、勘所で一気に高みへと導くような手並みの鮮やかさのある演奏に魅了されていました。長いスランプの果てに、彼に生じた一つの変化に深い感動を覚えていました。

蒔野が洋子の存在に気が付いたのは、第一部の最後の曲を弾き終えたときで、再び舞台に立った時、一番に確かめたかったのは洋子がそこにいることでした。

第2部のバッハはまろやかさを感じさせつつも細部に至るまで透徹して冴えていました。存在の底から満たされていくような繊細な法悦がありました。

2度目のアンコールに立った時、マイクをとり、「近くにセントラルパークもあるし、・・・今日はとても良い天気ですから、あとであの池のあたりでも散歩しようと思っています。」という言葉に洋子は彼の表情を見つめていました。

そして、一階の奥に向けて、「あなたのために for you 」と言っているように「今日のマチネの終わりに、みなさまのためにもう一曲、特別な曲を演奏します。」ち《幸福の硬貨》を弾き始めました。

その冒頭のアルペジオを聞いた瞬間、洋子の感情は、抑えるすべもなく涙とともにあふれ出しました。

蒔野はベンチに掛けていた洋子を認め、洋子は立ち上がり赤らんだ目でほほ笑んだ。初めて出会ったあの夜の笑顔から、5年半が過ぎていました。

『マチネの終わりに』感想

蒔野と洋子の大人の恋愛を通して、人間としてあるべき姿、世界がたどってきた不幸の歴史と現在にまで続いている、終わりの見えない紛争を私たちがどのように見たらよいかを問いかけています。

自分が生きている国のあり様さえ、危ういと感じることが多い中で、より広い目で世界を見つめていかなければならないのだと思いを新たにしました。

洋子の父のイェルコ・ソリッチはこの小説のなかでは脇役ですが、洋子の中に父親の視点は多く含まれていて、かなり示唆的です。

彼の言葉の「事実は、事実としてある。情報の真相を確かめるというのは、今の世界では最も価値のある仕事だろう。報道の虚偽や偏向は、国の運命も、人間の運命も変えてしまう。」は生きている人すべてが考えなければならない言葉なのでしょうが、ジャーナリストとして仕事をしている方には特に考えてほしいと思う重みのある言葉でした。

日本でよくみられる、歴史修正主義や、文書の書き換え、文書をないことにしまえば、世界まで見えなくしてしまうのではないかとの恐れを抱きます。

また愛し合うことの意義は、容姿は大切なのでしょうが、意見が合うということ、考え方に納得できるということ、向上心があるという基本的なことが合うことが出来る愛は無上のものになるのだと思わされました。


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