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広告 母の介護

認知症の母の終末期と向き合った経験からケアを考える

認知症の母の末期を看取りましたが、いつかは笑顔と出会うことができると願った思いはかないませんでした。

誰にでもやってくる終末期について考えたことがあるでしょうか。

ほとんどの方は、考えようともしない、考えても仕方がない、考えたくないと思う方がほとんどではないでしょうか。

母の終末期に真剣に向かい合った私も自分のこととはどこかで重ならないところがありますが、それでも経験したことにより生易しい問題でないということは分かりました。

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認知症の母の終末期と向き合った経験からケアを考える

親を見送れば、次は自分の終末期を考えなければならないのですが、考えにくいというのが本音です。

一番大きな問題は、終末期の自分がどのようになっているか想像もできないことにありますが、それでも否応なしに終末期は来るのです。

母は大家族の中で生活していましたから、自分でも幸せな末期を迎えることが出来ると思っていたようですし、家で末期を送ることが出来ると思っていました。

世の中そんなに甘くはなく、老人性うつ病になり認知症が出てきた母を、精神的にも物理的にも優しく看てくれる人はいませんでした。

それぞれに仕事が忙しければ仕方がないことと言わざるを得ませんし、大家族の中で介護をするのは相変わらず他人の嫁になってしまうのですから心からの介護を望むのは、難しいしい時代になってしまいます。

最後は施設に入ることになりましたが、母は最後まで家に帰りたいと言っていました。

家にいる誰それが良いというわけではなく、家という居場所が恋しかったようです。

在宅介護が良いことは誰でもわかっていますし、誰もが望むことなのでしょうが、そこでどのような介護が出来るのかになるとはっきりとした道筋が見えてこないのが現状です。

母は、脳梗塞を繰り返し、最後は寝たきりになり言語障害のために何も言葉がでなくなった父の介護を最後までして見送ることができました。

最後は肺炎を起こしたために病院で意識不明になり、そのまま意識が戻らずに亡くなりましたが、在宅介護を泣きながらでも成し遂げることができたのは、母にはそれを仕事にできる時間があったからです。

現在介護に専念できる家族がいる家はどのくらいあるでしょうか。

高齢化が進むにしたがって、介護する側の高齢になり、体力も衰えれば、仕事との両立が難しくなるのが現状だと思います。

母の世代は、母が舅、姑にしてきたように家族が面倒を見るのが普通だと思ってきた世代なので、自分の終末期は自分でトイレができるということが最高のことと思うだけでその他のことは考えなかったようです。しかし母は73歳の舅、姑を看取ってきたので、その当時は私などよりも20歳近くも若かったのです。

最初はデイケアを受けていたので、おむつはしていましたが、最後までトイレに連れて行ってもらっていました。

しかし、トイレを使うことが出来るという人間の尊厳に関わるようなことの面倒を見るのは時間的、体力的に在宅では無理なのです。

その点に関して言えば、施設に入ることができた母は幸せだったとしか言いようがありません。

このように考えてみると、在宅介護か施設入所かはケースバイケースであってどちらが良いかなどと決められる問題ではないと思います。

自分の終末期はどのように考えておくべきなのか

私自身のことに関して言えば、ひとりで生活が出来るうちは家で過ごし、できなくなったら施設入所がよいと考えていて、子供にもそのように話していますが、それでさえ思うように行かない問題があります。

最大の問題は施設に入れるかどうかにかかっていますし、有料の施設はかなり高額になるようですし、詳細がわかりにくいものもあるので決めるのが大変だろうと思っています。

そのような介護の今後の問題を政府はどのような設計を立てているのかさえ見えてこない現状の中で、自分の終末さえ考えることができないでいる方も多いのではないかと思っています。

高齢化社会の中で待ったなしの現状の中で孤独死が増えていることを考えれば、見えやすい政策があってしかるべきだと思うのは私だけでしょうか。

誰にもやってくる終末期について考えてみました。



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