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母の介護

失って感じることの多い母の偉大さー母の1周忌

2015年6月15日

母が亡くなって1年が過ぎようとしている今日の日曜日に1回忌が営まれました。

93歳まで生きた母ですが、思いはどんどん大きくなっていきます。

子供の頃も、私が結婚してからも母を偉大だとか、立派だとかは感じたことがありませんでした。

そんな風に思うようになったのはいつからだろうかと考えてみてもはっきりした記憶はありませんが、亡くなった後にそんな思いが大きくなっています。

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失って感じることの多い母の偉大さー母の1周忌

晩年は老人性うつ病と認知症でとても寂しい思いをしていた母をかわいそうだと見守るほかはありませんでしたし、病院にも毎月連れて行ったので、その時期は私が守ってあげなければならない存在でした。

50歳で脳梗塞で倒れた父を支えて母はとても苦労した

父が50歳で脳梗塞で倒れ、その後はかなり苦労をしましたが、父が回復に向かい弟が結婚して3人の孫に恵まれてからは穏やかに生きてきたのだろうと遠くに住んでいた私は思っていました。

それまで忙しく働いた母は体調を崩しかなり大変そうでしたが、それまでの疲れが出て精神的に病んでいたのかもしれないと今になって思っています。

父は脳梗塞の病状が和らいだと言っても言語障害が残っていて体も心配だったのでしょうが、言葉が通じないことが苦痛で、一人で出歩ける状態ではなく、母もそれまでほとんど旅行などできないままに過ごしてきたので、私たちが毎年1度は車で気ままな温泉旅行に連れ出しました。

娘が小さい時から大学生になるまで父母を私たち夫婦と妹夫婦で連れて行ったので、かなりいろいろなところに行くことが出来ました。

父は何度か脳梗塞のぶり返しがありましたが、寝たきりになったのは私はメニエール病で入院した時でした。

自己退院して父のところに行った時にはとてもうれしそうな顔をしてくれましたが、その時から父は一言も話が出来なくなってしまい、排便の感覚もなくなってしまったので母が寝たきりの父を5年以上は看取りました。

それ以前の入院時には私と母が病院に泊まり込んで看病しましたが、私が看病出来なかったときから寝たきりになりました。

後で書くことになりますが、母も私が網膜剥離で入院して病院に連れていけなくなってから急激に寂しさが募ったようで、ショートステイやデイサービスの介護士さんの手を握って離さなくなり、急激に弱りました。

後になって私に見放されたと思ったのかもしれないと思ったのではないかという思いをぬぐいませんでした。

父の場合は主介護者でなく数百キロも離れ住んでいた私にとってはできる限りのことをしたと思っていました。

そんな中寝たきりの父が肺炎を起こして意識不明になり亡くなりましたが、その時も母と一緒に病院についていました。

父は母が手を尽くして看取っていましたし、30年の患いだったのであまり思い残すことは有りませんでしたし悲しかったけれども仕方がないという思いがあって後々まで尾を引くことは有りませんでした

父が亡くなった後は一人ぼっちになったと母は言っていた

父を看取っている間は母をどこにも連れていけませんでしたが、父が亡くなってからは母だけを旅行に連れて行くようになりました。

数年間かなり遠くまで車で連れて行きましたが、弟が転勤で住んでいた十和田まで車で行った時には私たちも疲れましたが母も疲れたのかもうどこにもいかなくてよいと言ったのでそれが最後の旅行になりました。

それから数年は妹も呼んで、私の家で食事をして1日遊んでで行くのが楽しみになったいましたが、ある時を境にに私の家にも迷惑をかけるからいかないと言い始めたときが老人性うつ病の発病時期だったと後で思い返すことになりました。

それからの経緯はこちらに書いてありますので省きますがそんな母が亡くなった後に私に母は忘れられない存在となってしまったのです。

8人兄弟の一番上に生まれ、7人兄弟の1番上の父と結婚した母は面倒見の良い人で誰にも好かれました

舅、姑、6人の小姑の中で母がとても苦労したのは、長女の私は日常的に見ていましたので子供心にも知っていました。

子供以外はすべて他人の中での生活は気を使い、体を使ってとても大変だったと思います。

そして、舅、姑、小姑にもいろいろと言われて嫌な思いをしたようですが、後年父の兄弟は実の兄弟の父よりも母を慕って実家に来るようになりましたし、私はその叔父や叔母たちと兄弟のように仲良くするようになりました。

母はどんなことも忘れることができるという特技を持っていて、誰にでも好意をもって接することの上手な人でした。

実の弟妹にも慕われて仲良くしていましたし、父の弟妹にも慕われていましたが、父の叔父や叔母が病気になった時には何度も訪ねていました。

そして、人の悪口を言うのを聞いたことがないと今になって思い返していますが、私が結婚してからはたのめば何でもしてくれましたが、私はどのような口出しもされたことがないことも改めて思い出します。

一緒に住んでいた弟の嫁にはすべてを任せていましたので、お互いに気まずいことはあっただろうがすべて義妹が仕切っていました。

特に寝たきりだった父が亡くなった後は、外目にはとても良いお嫁さんでしたが母はつらいことが多かったようで、私たちには小言を言いましたが、かなり気を使っていたようでした。

そんな母が、老人性うつ病になり、物忘れがひどくなったのですが、内科に連れていき検査をした結果体はどこも悪いところがないと言われたと、亡くなるまでどこも悪いところはないと頑張っていました。

老人性うつ病や認知症は病気ではないと頑固に言い張る義妹に何も言うができないので、母を我が家の近くの精神科に受診させることにしましたが、それも面白くなかったと思います。

しかし何を言っても聞く耳を持ってくれない義妹が、いやだろうと思っても母を放っておくことができなかった私は毎月病院に連れてきて、一日家で預かるという生活をしていましたが、母にとっては住み慣れた家で大勢の家族とともに暮らすことが一番だったようでした。

何度も担当のケアマネージャーさんとも話しましたが、ケアマネージャーさんが初めて母に会ったときに母が言った言葉は「家族はみんなよくしてくれえるので私は幸せです。」だといいます。

私も母を連れて実家に行ったときにケアマネージャーさんに、母がそのようにいうのを聞いたことが何度かあります。

母は最期までそのように言い続けて壊れていきました。

私と妹には本音を言いましたが、本音を言えない寂しさは介護士さんの手をつかんで放さなくなるという行動につながっていき、介護が一番大変な状態だといわれるようになって行ったのです。

私が入院をした後は病院にも連れて行ってもらえなくなり、状態が悪化していくのを私はどうすることもできない気持ちで遠く見守る以外にありませんでした。

いつか笑顔を戻してあげたいと願っていた数年でしたが、それがかなわなかったことがいつまでも悔いとして残ることになりました。

しかし、私が壊れ始めたころに写した母の遺影は優しかったころの母の面影がそのままに写っていて、皆さんに褒めていただけたのが唯一の慰めになっています。

そしてその笑顔から母の偉大さを感じることができるのが最大の慰めになっています。

私は母のようにはなれませんが、母の生きざまを思い出しながら生きていきたいと思っています。

毎日30度を超す暑さの中で、母の一周忌だった昨日はしのぎやすい雨がちの曇り日になり、母はいつまでも人のために生き継いでいるのだと思ったことでした。

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